『ハングルへの旅』 茨木のり子

ハングルへの旅

ハングルへの旅


ハングルを学ぶ。韓国を旅行する。「言葉」の旅である。この本は、「言葉」の中を泳ぎ渡る旅の記録なのだ。
今から四十年以上前のことである。
日本でハングルを学ぶ人(著者茨木のり子さんの同輩)はさまざま、動機も目的もさまざまである。むしろ、一言で説明できる場合のほうが少ない。それでも、このころに(講座も学校もほとんどなかった頃に)ハングルを習得したい、と望む人の中には、「学びたいな、るんるんるん」というのとは別の、渇望を湛えてひたすらに立ち向かっていく人が結構な確率でいたようだ。その姿を垣間見ながら、ジュンパ・ラヒリ『別の言葉で』を思いだす。重ねる。
日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代の記憶が生々しい人々。そこに嘗て住んでいた人たち。そのために母国語を奪われた人たち・・・
それだから、きちんとハングルを、という人たち。逆にそれだからあえてハングルに背を向ける人たちも。
(どちらの思いにも、言葉もなくて。先日読んだばかりの金時鐘『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』が思いだされる)
1974年に、日本でハングルを学ぶ、ということは、いろいろな理由で、とても微妙なことだったのだろう。それゆえに、ハングルを習得しようという試み、ハングルで会話を、読み書きを、という試みには、一筋縄ではいかない微妙で根深い物語が伴うようなのだ。


ことに印象に残っているのは、旅先で、覚えたてのハングルを使って会話しようとする著者に対する人びとの様々な反応。
そのなかで、一人の陽気なおばあさんの「私たちの言葉を習ってくれて、ありがとう」という言葉が心に残る。
「習ってくれてありがとう」、ここでありがとう、という言葉に出会うなんて誰が思うだろう、と、読んでいる私もはっとする。
その言葉とともに生きていく人(その言葉の大切さを肌身に沁みるように感じている人)の言葉への愛情が、素朴に明るく伝わってくる。そういう人に「ありがとう」と言われたら、素直にうれしくなる。
そう思えば、ハングルを話そうとする日本人旅行者に冷ややかな眼差しを向ける人も、「(ハングルではなく)日本語を話しなさいよ!」と叱責する人も(ともに出てきました)、その気持ちを推し量れるような気がする。「ありがとう」のおばあさんの言葉と、それらは同じ源からやってきているのだろう、ということを。
日本の植民地政策のもと、徹底的に母国語を奪われた人々を前にして・・・この国の人たちは自分たちの言葉がどれほど大切な宝であるか、とても深く知っているのだ、ということに揺さぶられる。
朝鮮語抹殺計画を徹底させながら、遂に叩きつぶせなかったことは、日本が敗退してすぐ、ハングルが息を吹きかえし芽ぶいてきたことでもわかる。見えないところで脈々と地下水のように流れていたのだ。」
「言葉」は、本当は何を身内に湛えているのだろう。
「言葉」は、その民族の歴史でもある。脈々と伝えられる思いの連なり。


様々な記念日があるなかで、韓国には「母国語の日」というのがあるそうだ。言葉の祝祭日。
「この地球のどこかに「母国語の日」を祝っている国が、ほかにあるのだろうか」


韓国の女たちの持つ粧刀のこと。韓国の国花・木槿のこと。子どもたち・大人たちのこと。そして、日本で獄死させられた在日詩人・尹東柱を訪ねる旅のこと。心に残る。


韓国語は美しい、と著者の出会った韓国の人が胸を張る。日本語は美しいだろうか。ほかの言葉は。
思うに、その言葉を使う人の使い方なのではないだろうか。そして、それを受け取る側の受け取り方なのではないだろうか。
ああ、美しいな、あのひとの言葉は、と思うことはあるものだ。逆に、耳をふさぎたくなるような言葉を聞くこともある。
わたしも、せめて耳に気持ちのよい言葉を使えたらいいなあ、と思う。