『屋根裏の仏さま』 ジュリー・オオツカ

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)


100年ほど前、夫となる人の写真だけを頼りにアメリカに嫁いだ日本の娘たちは、失望とともに結婚生活を始める。
過酷な労働とどん底の暮らしに耐えた。生活には、言葉と習慣の壁と被差別とが伴った。
それでもアメリカで生きていこうとする。子をなし、それなりに(低い低いそれなりではあるけれど)生活の基盤も固まってきたころに太平洋戦争勃発。
次つぎの権利はく奪、逮捕におびえ、やがては全員そろって収容所に移送されることになる。枢軸国からの移民のなかで、移送されたのは日系人だけだったのだということを、そしてその意味を、決して忘れない。
彼女たちの人生のあまりの過酷さ、周囲の冷たさに、言葉を失くす。
やっと手に入れた家を、何とか手に入れた仕事をそのままに残して、ささやかな生活を捨てて出ていく家族を犬が追ってくる。ボールを咥えて「もういっぺん投げて」と。その場面を私は忘れられない。


けれど、この本で、一番印象に残るのは、この本の主人公、語り手が、「わたしたち」であることだ。
一人称複数の「わたしたち」・・・こんな語り手には初めて出会った。


これまで「わたしたち」という言葉が好きではなかった。
その言葉は、ときどき無責任に聞こえる。私、という存在をあいまいにして、私という存在を誰かの背中の後ろに上手に隠してしまえる便利な言葉のように聞こえることがあるのだ。そう思った。
しかし、この本の主人公たちのように、あまりに特別な体験をした人たちにとっての「わたしたち」は、ほかの多くの人たちのなかから、むしろ一人ひとりを際立たせる。そして、踏みつけにされそうな一人ひとりの小さな声を、大きな声に変えてくれる。
チヨ、カヨコ、サチコ・・・あなたの人生も、あなたの人生も、あまりに特別で過酷だ。語り伝えることはあまりに盛りだくさん。人生のどの一点を取り出してもそう。簡単に、苦労したね、などとはとても言えない。
そうした「特別」をしかし、揃って強いられた彼女「たち」の声をひきだすために、彼女たちを塊にした。その塊に与えられたのが、「わたしたち」という名称だった。
わたしは、ひとりひとりの特別と、塊――歴史のなかの特別とを、同時に「わたしたち」の語りで読んでいたのだ。


そして、「わたしたち」の対極にいるのが「彼ら」。彼らは白人だった。
最後に、町の中から日本人の姿が消えた時、これまで読者として慣れ親しんできた「わたしたち」が消えたとき、驚いたことに「彼ら」が「わたしたち」になってしまうのだ。
「彼ら」が「わたしたち」という一人称で、語り出すのだ、はじめて。
今まで三人称で遠くにかすんで見えていたおぼろなものたちが、今、はっきりと見える。いいや、一人称になったことで、わたしのなかに入ってきている。


これはアメリカの日系人の女たちの物語であっただろうか。
これは、過去の物語であっただろうか。
「彼ら」はいつでも「わたしたち」になりうる、という証ではないだろうか。
差別は、「私自身」のなかにはない、とどうしていえるだろう? いつでも私はどこかの「わたしたち(の一人)」であり、「彼ら(の一人)」であり、ある日突然、くるりと反転する存在である、と感じるのだ。
「わたしたち」が消えて、「彼ら」が「わたしたち」になり、ずっと前からずっと「わたしたち」であったような気がしている、この物語の静かで不気味な終章を私は覚えておこう。