『ガケ書房の頃』 山下賢二

ガケ書房の頃

ガケ書房の頃



ありし日の『ガケ書房』を知らなかった事が残念な気がしている。(知っていたとしても、遠くて行くことはできなかっただろうけど)


家出からはじまる波乱万丈な著者の半生は、幼い日に入り浸っていた近所の書店『こま書房』に始まる。
本から離れていた時代の著者にも、この小さな書店のおもかげがずっと寄り添っているように感じた。
(自分の来し方を振り返れば、原風景のようなものに思い当たる。普段忘れていても、夢中で何かをしている時に、今の私の根っこはきっとあそこかな、と思うような。そんなことを幸福な気持ちで思いだした。)


横浜時代の古書店のアルバイトから始まって、本屋話は、どれもこれもわくわくすることばかりだった。
経営者、または売る側としてのシビアな話も、経営者だからこその挑戦なども、冒険譚を読んでいるようだ。著者は立ち止まらない。囚われない。
わたしは読みながら、どこにも、自分自身をそこに思い浮かべている。それは、買う側としての自分、あるいはただ、そういう本屋に立ち寄った自分、として。


ガケ書房セレクトショップ、として紹介されながら、実は「普通の本屋」であったという。
逆にいえば、普通の本屋はどこもセレクトショップである、ともいえる、と。
本屋は、お客が本を選ぶ場所なのだと。「本屋が思想をコントロールし、本を選ぶのはマズいと思っている」とも。
ネットで、どんな本でも買える時代に、町の本屋であること、そして「普通の本屋」が、お客から「特別な本屋」と呼ばれるのには、きっと理由がある。
「本屋で買った本は、全部お土産だ」という言葉に出会ったとき、これかな、と思った。(ほんとうはもっともっといろいろあるけれど。私には、これが一番共感できた。買い手として、売り手と握手しているような気持ちで)


そして思いだす。手許にある私の好きな本たちは、その本を入手するに至る、その本だけの特別な物語を持っていることを。
その本に出会うまでのこと、買ったお店のこと、買った時の小さな、でも大切な物語が、その本を手にした瞬間に蘇る。
そうして、その本は、特別な思い出をまとって、持ち主の特別な宝物になるのだ。そうそう簡単に手放せない。
図書館で出会って「これは手許にほしい!」と思った本なら、「あの店で買おう!」と思い浮かべる。あるいは、この本に似合う店がみつかるまで待とう、と思うこともある。好きな本と好きな本屋が私の中で結ばれる。


本を買う事に「確認の買い物」と「発見の買い物」がある、という。
あらかじめ欲しいものがあって、確実にそれが手に入れられる喜びも大きいけれど、思いがけない発見を期待して、わたしは本屋に立ち寄る。
「確認の買い物」も「発見の買い物」も、ともに、本屋巡りの楽しみ。


著者の古書店バイト時代の遊び心ある本の売り方、一時的な現象のベストセラーのこと、スマホの普及が奪った「暇つぶし」時間のこと、興味深い話題はつきない。
ガケ書房は、今はない。しかし、「ホホホ座」という新たなステージが始まっている。正直、それがなんなのか、私にはイマイチわからない。でも、混沌とした大きなエネルギーを感じる。