『金素雲『朝鮮詩集』の世界 (中公新書) 祖国喪失者の詩心』 林容沢

金素雲『朝鮮詩集』の世界―祖国喪失者の詩心 (中公新書)

金素雲『朝鮮詩集』の世界―祖国喪失者の詩心 (中公新書)


金素雲は、韓国の上田敏と言われるほどに、『朝鮮詩集』など美しい翻訳で韓国の多くの詩を、日本に紹介してきた。
それらの詩はほとんど、日本の新体詩を彷彿とさせるような抒情詩だといいます。
けれども、日本の抒情詩の心が「もののあはれ」であるのに対して韓国は「恨」なのだ、と著者は指摘します。
「恨」とは、韓国人の伝統美学のひとつであり、日本語の「恨み」とは違う。
著者は「「恨」の定義を簡単に下すことはできないが」と言いながら、李御寧氏の言葉を引用して、
「他人に対する“怨み”ではなく、自分の内部に沈殿し、積もる情の塊、悲しみで、結局は叶えられない望み、実現されなかった夢であり、それには挫折感が同居し、この挫折感のなかに潜んでいる切々たる願望が「恨」を持続させる」
のだといいます。
わたしは、海外の詩(詩だけに限らないけれど)を日本語で読むけれど、はたして本当にその心までわかったといえるのだろうか、とふと心細い気持ちになります。
その詩の根っこに何があるのか、それどころか自分自身が何をよりどころにして読んでいるか、本当はわかっていないのだから。
著者はソウル生まれ。建国大学を経て、東京大学大学院で比較文学を研究し、博士課程修了。
韓国の文学も日本の文学も深く知る著者だからこその言葉に、導かれながら、途方に暮れてしまう。
「恨」と「もののあはれ」は韓日両国の伝統的な別箇の国民情緒でありながら、その表の姿が極めて似ているなら、何も言わなくても(自分の言葉で相手のことを)理解したような錯覚に落ちるのも無理はないような気がする。
そして、その錯覚はもしかしたら、「互いがまったく違うからわからないのは無理もない(だから知ろうと努力しよう)」という思いよりも、ずっと深い目に見えない溝を作っているのかもしれない。
しかし、「簡単に比較することはできない」と言いつつ、著者は(たとえば日本の佐藤春夫と韓国の金素月との)ともにいくつもの感情が絡まり合って生まれる無常観をあげ、そこに、両者の大きな共通点を見出す。
共通点、という言葉に深く救われるような思いを持った。
たとえ根っこをほんとうには理解できていないとしても、一つの詩に心動かされたことが確かなら、その気持ちを手放さずにいたい。そして、そこから手繰り寄せるようにして、そのさらに先の道をゆっくりと進むこともできるんじゃないか、などと考えている。
詩は繰り返し読むものだから。


もうひとつ。(この本を手にとったきっかけでもあるのだけれど)
親日家であったがゆえに金素雲は故国韓国からはあまりよく思われていなかったそうだ。
金素雲の詩は限りなく美しい。
上田敏に例えられるように、その翻訳は「訳」というよりも「創造」に近いし、高い芸術性をもっている。
芸術性を重視するあまり、原詩の意味や寓意をやむを得ずゆがめてしまうことさえある。
でも、ときには「故意に?」と思うものが・・・。
金素雲の代表的な訳詩集『乳色の雲』も『朝鮮詩集』も、日本の植民地時代のものや、朝鮮戦争のころの韓国詩人たちの作をとりあげている。
植民地支配(というより植民地弾圧)により故郷を失い、言葉も名前も失い、大切な人たちとの別れを強いられたことを背景にした「恨」の心をうたった原詩であるにもかかわらず、日本語翻訳詩からは、そういう心情が一切伝わってこない。
ただただあわあわとした哀感に満ちて美しいばかりだ。
故郷からの反発も招くだろう。読んでいて居心地悪い気持ちになる。
故国を深く愛する金素雲が、なぜ。なぜなのだろう。


金素雲は日本にいたのだ。
植民地主義・内鮮一体政策の時代に、韓国人の著者が日本で暮らすこと、まして故国の文学作品(翻訳)を発表するということは、きっと・・・
書けるはずのなかった言葉、出版できるはずのなかった詩があっただろう。逆に書かざるを得なかった言葉も。
明日の見えない時代に、奪われた言葉の闇から、金素雲は故国の人びとの心を、ことに美しい故国の人びとの心を、救いだそうとしたのではないか。
日本語に替えてでも守りたかったのではないか。
美しい故国への自身の深い思慕の念でもあっただろうか。
これらの原詩が書かれた時代を思い浮かべながら、訳されなかった(訳すことができなかった?)その心もまた思い浮かべている。
美しい詩の文字の並びのその横に、ないはずの空白が、見えてくるような気がする。
そこにきっと訳されなかった心がある。血の涙がある。日本人のわたしにはきっとわかりきれない深くて大きな「恨」に昇華した言葉がそこにあるに違いない。
それは文字にならないために、もしかしたら、文字になった言葉よりもずっと重いかもしれないのだ。