『遠ざかる景色』 野見山暁治

遠ざかる景色 (大人の本棚)

遠ざかる景色 (大人の本棚)


「1 遠ざかる景色」「2 異国の人々」「3 ある鎮魂の旅」の三部。
1は、自分の生い立ちの思い出、2は、パリ留学時代に出会った人々とその16年後の再訪の記録、3は、戦没画学生の遺族たちを訪ねて回った旅の記録。


特に興味深く読んだのは、「2 異国の人々」の12のエッセイでした。
16年ぶりのパリ。町の姿は殆ど変らないのに、そこに住む人々の暮らしぶりも価値観も。気質さえも驚くほどに変わってしまったことに驚く著者の感慨を読みながら、そう、これは今から40年も昔の文章なんだな、と実感しています。
たとえば、16年前に住んでいた家(今は全く知らない人が住んでいる)をアポなしで訪問したが、どのように頼んでも中を見せてもらえなかったことを嘆いている。(でもでも、この家の女主人がわたしだとしても、やっぱり断ると思うよ・・・。)
また、パリの街路で、野良猫をいじめた子どもたちが、老女にみつかって逃げ出す。「だれかつかまえて」との老女の声に、道行く人々はだれ一人、聞こうとしない、振り返りさえしない。自分に関係のないことにかまっている余裕はないのだ。
こんな町ではなかった、16年で人は変わってしまった。
フランスだけではありません。現代の日本に住むということは、著者の驚きのさらに進んだ先に住む、ということなんだなあ、と複雑な気持ちになっています。
農村部である、ということもあり、私がこの家に嫁にきたころは、玄関の鍵は(留守にするときでも)閉めたことがなかった。縁側でお茶を飲みながら、義父母は、通りかかる人を招きいれておしゃべりをすることを楽しんでいた。あれから30年近い。留守にしなくても玄関に鍵をかけることが習慣になった。外でお茶を飲むこともないし、見知らぬ人が、我が家の前で足を止めることもなくなった。
亡くなった義父が30年前からタイムスリップしてここにきたら、きっとその驚きは、野見山暁治さんの比ではないだろうなあ、と思う。


ことに好きな文章は、『回想のオンドビリエ』
嘗て住んだオンドビリエというフランスの田舎を16年ぶりに再訪する。
ところが、当時とは別のルートを通り、(違う方角から眺めれば)よく知っていたこの土地の風景はこんなに美しかったか、と著者は驚くのです。
過去から、三人の男の一風変わった友情が浮かび上がってくる。
三人のうち、一人はすでに亡い。その人の想い出を語る友人の意外な言葉・・・その真意を類推する言葉に、まるで入れ子の箱を見ているような気持で、著者の真意を推し量っている。
こういう人なんだ、と信じて読んできた、人の心の風景が、眺める方角をちょっと変えただけで、ほら、こんなに違って見えるのだ。
そう思ったとき、物語の中の人が、急にくっきりと浮かび上がったように思った。


あちこちから眺め、見える景色の印象が増えるごとに、その景色は陰影を増すのだろう。
第三部「ある鎮魂の旅」もそのようにして書かれたものではないか。
目的のある短期間集中の旅であった。その目的は達せられた。きちんとした形になった。
そこで終わってもよかったはず、と思う。
でも、そのあとで、このエッセイは書かれた。書かれて・・・さらに書き足されて、この形になったのだろう。
一つ形にして、さらに別の角度から新しい陰影を与え、さらに・・・それは、どこまでいっても、終わらないのかもしれない。
きっと著者にとってそういう旅なのだ。この「鎮魂の旅」は。
そう納得しつつ、戦争に駆り出されて命を奪われた人が遺した作品の静かさ、平和さを思い浮かべています。私が今目にしている当たり前の風景がどんなにかけがえのないものか、と思いながら。


この本のタイトルは『遠ざかる景色』なのに、見たことのない景色、会ったことのない人々が、鮮やかに目の前に現れるのを感じています。