パヴェーゼ文学集成(2)

パヴェーゼ文学集成 〈2〉 長篇集 美しい夏

パヴェーゼ文学集成 〈2〉 長篇集 美しい夏


三つの長編が一冊に納められています。
特に物語同志に繋がりがあるわけではないのですが、同じテーマが繰り返し、形を変えて色を変えて現れる、そんな感じの連作のようです。


『美しい夏』


十代後半の美しい娘たち。洋裁店勤め、女工、モデル・・・
夏の夕方、町を連れだって散歩し、カッフェやダンスホールで笑いさざめく。
ともに一夜を過ごす仲間もいるけれど、無残なくらい一人ひとり、ばらばら。
ひとりぼっちなのに、ひとりぼっちだということさえも、きっと知らないんだ。
華やかにみえるけれど、まるで「町」に、鎖で繋がれているような閉塞感さえある。


恋に憧れるジーニアが、年上の女友だちと連れ立ちながら、背伸びしている姿は、可愛らしいが、危なっかしくてみていられない。
どんな危なっかしい足場の上でつま先立っているのか、まるっきり見えていない。
もっと素晴らしいものがあるはずなのに、知らない。
見えないまま、やがて自分という花を自分で摘み取り、くしゃっとにぎりつぶしてしまったようなイメージ。
こういう大人への道もあるのだ、と苦々しい気持ちになる。
振り返れば、冒頭の「あのころはいつもお祭りだった」という一文があまりにまぶしい。


壊れてしまった後で、振り返ってみれば、壊れ始めたころ(そしてそのときにはまったくそのことに気がつかなかった)が一番美しいのだった。



『丘の上の悪魔』


二十歳の青年たち三人の夏である。こちらも回想形式で語られるため、町の夜の馬鹿騒ぎにも、田園の牧歌的な景色の中にいることにも、切ないような甘美さを感じています。
この美しさは、いつ粉々になっても不思議ではない危機感を孕んでいる。


医学・法学を志す受験生でありながら、ちっとも勉強に身が入っていない彼ら。
やらなければならないことから逃げて、どんどん自堕落になっていく刹那的な姿は、まだまだ子ども。
その幼さは、きっとだれもが多かれ少なかれ経験しているのではないだろうか。


なんとなくトーンが変わったように思うのは後半。
丘の上のポーリの別荘に滞在するようになってから。
ポーリってなんなのだろう。わたしは彼の事がずっと不可解でした。
ポーリは、三人の青年をことさらに強く引き留めようとしているわけではないし、まして、何か強い影響を及ぼそうという気持ちも持っていない。
そもそも、彼は何も望んでいない。意欲もない。(『美しい夏』のグィードによく似た役回り?)
それなのに、吸い寄せられるように彼のもとに集っていく、どんどん不道徳になっていく、深みに嵌っていく青年たち。
街灯に集まる虫たちのようだと思った。そして、その先に待っているのは、あまり愉快な光景ではなさそう、と不安になるばかり。
若い日との決別の儀式だろうか。
苦々しいはずなのに、振り返れば、それは、めくるめくように美しい季節だった、とそればかりが懐かしく思える。
魔力があるような気がする夏。



『孤独な女たちと』


クレーリアがトリーノに帰ってきた。
17歳の時に、グィードとともに町を去った小さな洋裁店の店員。
そして、いまや成功したデザイナーとして、仕事を広げるために戻ってきたのだ。
クレーリアが、『美しい夏』のジーニアに重なる。
ジーニアが成長した姿のようでもあるし、ジーニアの仲間の誰かのようにも思えた。
毛皮のコートを着て、煙草を吸う。散漫なような、けだるいような日々。
それでも、彼女は、貧しい店員だった若い日を忘れていない。
若い女性たちを見る彼女は、自分自身の若い日の姿を追っているようだ。
『美しい夏』では、もしジーニアに、彼女のことを気にかけてくれる年上の人がいたら、と思ったものだったけれど、今、クレーリアがそのような存在に思える。
気にかける、というよりも、きっと過ぎてしまった苦い思い出の中に混ざり込んだ甘酸っぱさを思い出しているかのようだ。


最後に、この作品を通して、先の二作品を振り返っているように感じた。
振り返って、忘れることのできない苦さを再確認したように感じた。