空が青いから白をえらんだのです ―奈良少年刑務所詩集―


奈良少年刑務所の「社会性涵養プログラム」というカリキュラムの中で、受刑者の少年たちが書いた詩を集めた詩集です。
上手く書こうなんて思っていない、借り物ではない言葉が胸を打ちます。
犯罪者であることを忘れ、もろそうで柔らかな心が、裸で差し出されたような気がした。


彼らは間違いなく犯罪者なのです。
でも、生まれ落ちたときは、どの子もどの子も、みんな無垢の赤ちゃんだった。
彼らは犯罪者である前に普通の子ども――普通の子ども時代さえも満足に与えられなかった、
幼いままに心が止まってしまった子どもだったのだ、と思い知らされます。

>責任は彼らだけにあるのではありません。
と、編者は言います。
若い彼らを犯罪者にした責任の一端をわたしもまた担っているのかもしれない。


「詩」なんか書いたことがない、どんなものかということさえも知らない少年たちの詩は時には読みにくかったりします。
編者・寮美千子さんの丁寧な解説が読むのにとても助けになった。
と、同時に、さらりと読み流してしまいそうな、言葉の端々をこんなにも繊細に拾い上げる、寮さんの言葉の敏感さに驚きます。
あとがきのなかで、授業(?)のステップを解説し、

>それだけのことである。たったそれだけのことで、目の前の彼らが、魔法のようにみるみる変わっていくのだ
と書く。
たったそれだけ、ではなかったのだろう。
寮美千子さんの言葉に対する研ぎ澄まされた感性があったから、
少年たちの荒削りな言葉が、繊細な宝物の原石であるということを発見できたのだろう。


「ゆめ」という詩がある。
本文は「ぼくのゆめは・・・・・・・」と一行。たったこれだけの詩である。
この「・・・・・・・」の中に詰まった言葉にならない言葉を、絶句しないではいられなかった少年の心を、寮さんは読みとります。
「こんな作品、見たことがありません」「「詩」の概念に揺さぶりをかけられたような気がしました」とも。
寮さんの解説を読んで、はじめて、この詩の奥行きが見えたような気がしました。
そうでなければ、もしかしたら、わたしは通り過ぎてしまったかもしれない、この詩の前を。
何も知らず、何も気づかず。


詩を書くことによって少年たちが「魔法のように変わった」のは、
少年たちの詩の中の繊細さや鋭さ、その言葉に隠された本当の気持ちを掬い取ることのできる、
優れた導き手・聞き役がそばにいたから、というのもあったのではないか、と想像します。


最後のほうは、ずっと母を謳った詩が続きます。
十代後半、あるいは二十代の若者たちが、母を謳います。
何かとても幼い子どもの言葉のように、まっさらでピュアで、あまりにあまりに切ないです。
子の更生を心から願い、ひたずら待つ母だけではない。
・・・この子たちが母親と別れたのは、いったいいくつのときだたのだろう。
母親と別れた(あるいは母親を見限った)年齢に戻っての詩が、いくつも心に残っています。
早くに亡くなってしまった母、愛してくれなかった母、どこにいるのかもわからない母、そして、ちっとも面会に来てくれない母も。
それでも、子どもたちは母を求めている。母への思慕のひたむきさ、強さに、堪らなくなってしまった。


重罪を犯した少年たち。
良き導き手がいたら、ここにいることはなかったかもしれない。
そして、ここに来た者は、社会に戻っても、再び罪を犯すものもいるという。
でも、彼らの中には、鬼ではなくて、ピュアな子どもも住んでいる。その子が元気で、うんとうんと大きくなってほしい。
上手く言えないけれど、そんなふうに思っている。
だって、読み終えて、今言いたいことは「素晴らしい詩をありがとう」ということなのだもの。