カジュアル・ベイカンシー(1.2.)

カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 1

カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 1

カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 2

カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 2


二か月ほど前、『本が好き!』のソーシャル読書会に参加して、この本の原書を読みました。(感想はこちら
私にとって英語で読む本は、せいぜい大意を掴むくらいなので、ちゃんと読みとれていないこまごまとした部分を、邦訳本で確認することを楽しみにしていました。
こうして、翻訳版の『カジュアル・ベイカンシー』を読み、やっと全部読了できた、という気持ちでいます。


あまり間を開けずに読んだ二つのカジュアルベイカンシー、英語と日本語でこんなに印象がちがうのか、とびっくりしました。
ことに、登場人物たちの雰囲気が違う。
たとえば、聡明で温かい人というイメージだけで思い描いていたテッサが、この本では別人かと思うほど、鈍重に感じた。
それは、翻訳家が違うだけで同じはずの本の印象が、まったく違うと感じるのといっしょ、かもしれない。
英語がちゃんと読めていないせいもあるけど。
それから議会の場面。英語で読んだときには、もっとずっと長く感じたのに、ずいぶん短くあっさりとしているように感じた。
それも英語がスラスラ読めないせいだなあ、と思う。
ちまちま、ひっかかりひっかかり読んでいたため、長い文章のように感じたのだろう。
おかげで一文一文をゆっくり味わえた(?)から良かったのだ、と思おう。
一方で、隅々まできっちりと翻訳された本を読みながら、
今までぼんやりと霧の中に霞んで見えていた風景が、白日のもと、くっきりはっきりと見えるようになった感じを味わっています。
(まぶしすぎて、ときどき、「霧の中のままのほうがよかったな」と思ったりした。)



(ラスト場面に触れます)


かなりショッキングなラスト(この本が大人向けだ、というのは、あのラストの救いのなさのせい?)で、ずっと納得できない気持ちだったけれど、
物語は、あの散漫に見えた最初から、一直線にあの場面に続いていた。
正直、あれは禁じ手ではないか、と思った。でも、安易、というわけではないんだよね?
著者はどうしてもあの場面を書かずにいられなかったのだろう。
そして、狎れ合いのような苦々しい現実に、厳しく問題を叩きつけたのかもしれない。
ああまでしなければ変わることができないのか、と。または、ああまでしても何も変わらないのか、と。
何も変わらないかもしれない。それでも、変わろうとしている小さな勇気を信じたい。
わたしたちは――いや、私自身は、踏み出す足を持っているのだということを。