父親(有名な彫刻家だそうです)の死後、子ども時代の思い出の断片をオムニバスのようにならべて綴った自伝的小説。
ヘルシンキの冬の暮らし、夏の島の圧倒されるような自然と共にある生活、流氷、森、喜ばしい嵐。
ここに現れる父、母、兄弟、従姉妹、隣人たち・・・これらの人たちは、現実にはどのように暮らし、何を考え、作者とどのように関わっていたのか、そういう当たり前のことがまるで書かれていないのです。(それは、大人の事情です。)
子どもは、あるがままに、見えるまま、聞こえるまま、感じるまま、外界を受け入れるのですね。
こどもにとっての現実は大人とはちょっと違う。想像から生まれた不思議な怪物や人物が現実の風景のなかに混ざって独特の「現実」を作り出している・・・
わたしは、この本を読みながら、自分もまた、年端のいかない子どもになって、子どもの感覚でさまざまなものを見ているのです。
そうだ、こんな感じだった、子どものときに感じた世界って。でも、何もかもぼんやりしていて、こんな風に説明できなかった。こんなナイーブな感覚を覚えていて、散文詩のように美しい文章にしてみせてくれるトーベ・ヤンソンは間違いなく天才、と思うのです。
帽子をまぶかにかぶり、ひたすら一抱えもある石をころがしていく街の街路。
>石をころがしてきた何時間ものあいだ、
ただの一度も目をあげず、だれがなにを言っても耳をかさず、
石炭くずとほこりにまみれた石の中にある銀だけを。一心に見つめてきた。
自分と石、それだけがすべて。ほかのものが入り込むすきまはない。 (P33)
ママのパーティ用のチュールのペチコートを頭からかぶり、そのままアトリエを這って進む。
>…この動物はどんな形にもなれる。
自分を引きのばして家具の下にもぐるかと思うと、
みるみるかたまって、ねばっこい液状になり、
ねばねばした黒いきりになって、人をまるごと包みこんでしまう
・・・・・・
ついに前にも後ろにも進めなくなり、
パウダーとほこりのにおいがする黒のチュールの繭にまきこまれてしまった。
これでせったい安全だ。
一年くらいしたら繭から顔をだし、周囲を見まわして、
外に出るべきかどうかを決めることにしよう。 (P177)
どこかよその家にママと二人で滞在したときの気に入らない感じ。
>ここの風景はなんだか危険な感じがする。
むきだしで、からっぽで、雪にすっぽりのみこまれ、
立ち並ぶ黒い木々がどこへともなく消えていく。
世界の果てには細長い森がある。
すべててが変だ。 (P184)
大人だったらこんな風に感じない。こんなふうに感じられる感性をすっかり失ってしまっている。それなのに、この甘美でなつかしいような気持ち。心のどこかが「それはすっかり知ってるよ」と言っているような気がします。
現実と幻想がいい具合に混ざり合った日々。彩るのは、濃い海霧や、森の苔たち。海の嵐が猛るのを見て湧き上がる喜び。
こういう世界の中で、ムーミンの世界は、日々、築かれていったのか、と思うのです。
何度も「ああ、なんとまあ、うらやましい黄金の子ども時代」とため息をついてしまいました。