『本の中の世界』 湯川秀樹

 

小学校にあがる前から、祖父について「論語」や「史記」などの素読をし、中学時代には「荘子」や「老子」にのめり込んだ著者は、ノーベル賞物理学者の湯川秀樹
著者(当時の読書家と呼ばれる人はきっとそういうものなのだろうけれど)の読書の質の高さに、たじたじになる思いだ。
たじたじになりつつ、まがりなりにも本読む日々を楽しむわたしなりに理解し、共感したことなど、メモしておきたい。


この本で著者がとりあげる書物は、ほぼ古典、名著と呼ばれるものばかりである。文学作品として優れているのはもちろんだけれど、一人の読者にとって、その作品がかけがえのないものになるのは、ひとつには、夢中で読んだ当時の思い出と混ざり合うせいなのかもしれない。
荘子』からたちまち中学時代の、本の世界に没入していた頃を思い出す著者。
カラマーゾフの兄弟』に衝撃を受けて夢中で日記を書いた大学時代があったり。
舞姫』をはじめとした初期の森鴎外の作品から、ベルリン滞在中の思い出がよみがえり、永井荷風の『あめりか物語』に、アメリカ滞在時代の街の風物が重なり……。
そして、その本は、自分にとってかけがえのない一冊になるのだ、きっと。それはとてもよくわかる。
きっと誰にでもあるにちがいない。あの時この時の私の一冊をわたしも思い出している。


原子のことも何も知っていなかったであろう、二千三百年前の荘子と、いまの物理学の研究者である自分とが、非常に似たことを考えていることに、著者は、驚いたり、面白い、と思ったりする。
それから、『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、ドストエフスキーが直接「科学」について何も言っていないにもかかわらず、現代科学の根底に触れていると、著者は感じている。
物理学者、思想家、そして文学者。重なりがあまりなさそうな別の分野(?)をとことん突き詰めていったら、もしかしたら、目指していたのは同じ場所だった、ということもあるのだろうか。
額に手を当てて仰ぎ見ても、あまりに高すぎて、わたしにはとても見えないけれど、そういうところで、手を結びあう偉人たちの姿を想像してみる。


「本の面白さにはいろいろあるが、一つの書物がそれ自身の世界をつくり出していて、読者がその世界に、しばらくの間でも没入してしまえるというような本を私は特に愛好する」
わたしも!って言ってもいいですか。