『終の住処』 磯崎憲一郎

終の住処 (新潮文庫)

終の住処 (新潮文庫)


彼と妻との結婚から物語は始まる。そして、彼と妻とが初老といってもよいような歳になったところで物語は終わる。
その間に、彼は何人もの女と関係を持ったし、妻は夫に十一年もの間、口をきかなかった。
彼は、会社員として、膠着状態の得意先に活路を開くべくアメリカに派遣され、長い年月を経て、ある成果を収めた。
そうだ、夫婦の間に娘も生まれ、育っていったのだった。
だけど、そういう具体的なことがらは、きっとどうでもよいことなのだ。二人の結婚生活の内容が全く別のことがらに書き替えられたとしても、何にも問題はない。
取り替えようのないものとして浮かび上がるのは、「疲れたような、あきらめたようなお互いの表情」なのだ。結婚した当初も、現在も、まったく同じ表情の二人。


結婚生活のなかで、ある日、彼は思う。
「恐らく妻は、彼と結婚する前から結婚後に起こるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれていた復讐なのだ。」
続けて、
「この論理はあきらかにおかしい、因果関係が、時間の進行方向が逆転している。」
うん・・・
しかし、そういうこともあるような気がする。具体的に何を、ではなくて・・・
時間の流れなどとは関係ない、別の流れ(といっていいかどうか?)があって、そちらの法則に従えば、不思議でも何でもないような、いいや、だからこそ不思議といえるような・・・
やっぱりうまく言えないけれど、きっとそういうものがあるのだろう。
そして、同じ表情を持つ彼と妻とは、きっと、本当は(二人の人間ではなくて)たったひとりの彼自身なのだ。もしかしたら、「妻」と呼ぶものは鏡に映った自身の姿かもしれない。


私は、先日読んだ『私の名前はルーシー・バートン』(エリザベス・ストラウト)を思い出した。
あの本を読んだときにしみじみと感じたのは、
人生のなかのある本当に短い時間の輝き(当事者以外にはわからない)が、その人の人生の前にも後にも、大きな美しい傘のように広がって、すっぽりと覆うようなことがあるのだ、ということだった。
その後の人生だけではなくて、それ以前の人生の色(「意味」ではなくて、もっと漠然とした、色、ふかみ)さえも、塗り替えてしまう、そういう一瞬があるのかもしれない、ということ。
『ルーシー・バートン』のそれは、どちらかといえば、光のような時間だった。
だとしたら、(光あるところには、影が・・・というではないか)この本『終の住処』のなかで、彼と妻(彼と彼)が浮かべる「疲れたような、あきらめたような」表情が、大きな翳りの色となって、彼の人生を覆っているのではないか。
なんとも滅入るような、それでいて惹きつけられるような、不思議な小説である。