『もしも、詩があったら』 アーサー・ビナード

もしも、詩があったら (光文社新書)

もしも、詩があったら (光文社新書)


「もしも」という言葉は、どちらかといえばネガティブな言葉のように思っていたが、むしろかなりポジティブ、それも肉食動物のイメージに感じ始めた。良きにつけあしきにつけ、いろいろにつけ。この本を読了して、今、そう感じている。
「もしも」という言葉から、イマジネーションが働きだし、詩が生まれる。

>詩歌の作り手は大昔から、想像力を呼び覚ます装置として、「もしも」を多用してきた。だれでもときにふさぎ込み、何もかも嫌になってしまうことがある。そんな心理状態から脱出する非常口へ、「もしも」は導いてくれる。(中略)思考が壁に突き当たった場合、それをのりこえる梯子になってくれるのも「もしも」だ。


「もし、こうだったら・・・」と想像することから、いろいろな物が見えてくる。それまで考えたこともなかった視点に気がついて、ぐんと世界が広がる。
(「偉大なる『もしかして』を探して」という言葉が何度も思い浮かんできた。――ジョン・グリーン『アラスカを追いかけて』感想に出てきた言葉。フランソワ・ラブレーの言葉だそうだ。主人公は、この言葉を胸に旅だつのだ。)


この本で、ビナードさんはさまざまな詩をとりあげ、その詩のなかのいろいろな「もしも」に出会わせてくれる。
詩を読みながら、その「もしも」に至る理由を知りたいときもある。「なぜ、そんな『もしも』を考え付いたのだろう」と。
たとえば、この本でとりあげられているボブ・シーガ―の『カトマンズ』という詩は、ひたすらに、ひたむきにカトマンズに行きたい、と歌う。
でも、なぜそんなにカトマンズなの?
ビナードさんは「ひょっとしたら」という。詩のなかにぽろりとなんのこともなさそうに置かれたその一文が、理由になっているのではないか、と。
その一文に目をとめたとき、(そうではないときには気がつかなかった)この詩の「もしも」の向こうに置かれたシビアな現実が目の前に現れた・・・


「もしかしたら」この本はそのまま、アーサー・ビナードさんの偉大なる「もしも」なのではないか。
この本が書かれた理由は、『カトマンズ』と同じように、ぽろりとあちこちにさりげなく(隠されもせず)散らばっているのではないか。
たとえば、ソローの詩をあげて「経済成長の幻想、先端技術の過信、搾取のカラクリまでもソローの詩には盛り込まれている」と、人々を危険な罠に誘い込む「もしも」の話。
たとえば、歪曲され、排他的になり下がっている「愛国心」の話。
などなど・・・


最後の最後に、「詩というものは役にたつのかたたないのか」という話がでてくる。(詩をふくらませて文学としても、芸術としても。あてはまりそう)
聴くだけ野暮って、ビナードさんは言う。
「もし」役にたたないものを端から捨てていき、はっきりと「役にたつ」とわかっているものだけを残したとき、この世はいったいどういうことになるのだろうなあ。
想像したくない「もしも」が最後の詩。
ビナードさんの『眠らないですむのなら』の「ねむり」を大切に(震えながら)味わう。