『リトルジョンの静かな一日』 ハワード・オーウェン


朝、娘のジョージアと孫のジャスティンを送り出したリトルジョンの一日は、こともなく過ぎていくように見える。
リトルジョンその人も穏やかな男。生涯、この土地に住み、知った人たちのなかで、昔ながらの習慣を引き継ぎながら、もくもくと働き聖歌隊で歌い、誠実に生きてきた農夫。
しかし、それは外から見た姿。心に封じ込た秘密の重さに苦しみ、耐えて生きてきたのだ。(彼の秘密は、保身のためではなかった。)
表面のおだやかさからは、彼が背負っているものはとても想像できない。


「神様、わたしをお召しください。今すぐ連れていってください」
『静かな一日』を過ごすリトルジョンの唯一の願いがこれ。あまりに痛ましい。
リトルジョンの抱えてきた深い苦しみは、だれにでも起こりうることではないか。
娘のジョージアだけでなく、孫のジャスティンだけでなく、わたしだって。
「不注意だった」後悔をしないものはいないだろうから。
繰り返し繰り返し、異なった場面、異なった人間の姿をして、似た場面は現れる。


まだ若かった娘に彼が言った言葉「人間を人間として扱わないと、とんでもないひどいことが起こるんだ」という言葉の意味は深い。
人間を人間として扱う。
はからずもやってしまったことは、どうあがいても、もとにもどすことはできないのだ。そのあと、何ができるのか、という事でもある。
人間を人間として扱う、ということは、他人に対して、ということであるとともに、自分自身を「人間」として扱うことなのだ。そしてその扱い方でもあるのだ。
「人間」を貴ぶ故に、より深く苦しまなければならないこと、苦しめなければならないこともあるのだろう。避けて通ることもできるのに。


照りつける夏の太陽の下、どこまでも続くように見える広大な農地。アメリカ南部の田舎の空気がふと、懐かしいと感じる。
好きだったアメリカの物語をいくつも思いだすから。
そこでもくもくと働くリトルジョンに、生半可な言葉をかけることはできないけれど、
見た目通りの平和を(もっと深い平和を)私は、リトルジョンの中に見てしまう。
苦しみと永遠に消えない後悔と・・・でもその下から、人間への信頼、大きな包容力が、にじみ出て、静かに広がっていく。
さまざまな差別も、リトルジョンの人生の前では怯むしかないだろう。
厳しい自然の中で、実を付ける果樹や野菜のように、娘と孫のなかでいつの日か実を結ぶはずの種が育ち始めているのを感じている。