- 作者: 井伏鱒二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1970/06/25
- メディア: 文庫
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重松の姪(養女)の矢須子に縁談がくる。
そして、仲人からは、原爆投下の日以降の広島における矢須子の足取りを知らせてほしい、と言ってきた。
終戦後数年が過ぎている。
これを機会に、あの頃の手記を整理し、清書しようと、重松は筆をとります。
重松の手記を中心にして、矢須子の日記、あの日をなんとか生き延びた人々の手記も並びます。
これは、ほんとうに小説だろうか、とふと思う。あまりに詳細で、しかも生々しい。
原発投下直後。
九死に一生を得た直後に、取引先に集金に行く途中だから、とそのまま市中に進んでいく婦人。
目の前に、お城の天守閣がそのままの形で吹っ飛んでいくところをみたこと。
倒壊した家並みを見ながら「割合に行儀よく倒れる」と思っていること。
とりようによってはユーモアのある、とも言いたいような情景や言葉たちは、麻痺してしまった感情の印。想像を絶する世界に一瞬で投げ込まれて。
まずは、地獄絵図の恐ろしさよりも先に、その心持が、ただもう寒々と恐ろしかった。
その後に、ほんとうの地獄がやってくる。見えてくる。
業火に焼かれながら、人々のとにかく生きようとする姿、大切な人を生かそうとする姿が目に焼きつくようだ。
体の不調をこらえながら歩き続けるその道は、本当にこの世のものなのか。
戻ってこない家族を探して、地獄となった市中に戻る人々。どうして、戻るなと言えるだろう。
橋に貼られた(書かれた)伝言を、重松は手記に写し取っている。それを読みながら堪らない気持ちになる。
そして、戦争が人間をつくりかえてしまうことの恐ろしさを、岩竹医師は
「戦争というものは、そういう人間をこしらえる必然性を持っていて、良いことは何ひとつ生まない」という。
重松は、「戦争は嫌だ……いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」という言葉を書く。
これらの言葉は、ぽろりと、ついこぼれずにはいられなかった切実な言葉。
地獄の底でのぼやきのようで、だから、心に残っているのです。
戦争=リアルな地獄の入口、として。
やっと生き延びた人々が祈るようにして迎えた平和な時代のはずだった。だけどその平和な時代に残酷な仕打ちが待っている。
希望の兆しを見せられながら、そのあと、ごっそりとえぐるように持っていかれて、「生きたい」という気力がどこから湧いてくるだろう。
重松は、手記の清書を続けるのだ。その詳細な記録を、何一つ削ることなく。もくもくと。
最後の方になると、この手記の内容よりも、手記を清書し続ける重松のことが気になってきます。
どのような気持ちで、綴り続けているのだろうか。
もはや「〜のために」という目標もなく。
働き者の優しい妻のシゲ子、けなげで素直な姪の矢須子、家族三人、無我夢中であの地獄を生きのびたのだ。
そして束の間、ほっとした。もっとずっとほっとしていいはずじゃない?
それなのに、まるで、指の隙間から砂がこぼれるように、さらさらと逃げていってしまいそうなのだ。
書くことは苦しかっただろうに・・・
重松は憑かれたように書く。
終わってはいなかった、じわじわと浸食してくる地獄を、書かないではいられなかったのだろう。
耐えて、ただ清書しつづける。それだけが彼にとって、それでも(彼とその家族とが)生きている証しであったのかもしれない。