百年の孤独

百年の孤独

百年の孤独


マコンドという町がある。
この町の創始者たちで、この町と深く結びつき、町と共に繁栄と衰退とを経て、町とともに滅び去った一家がブエンディア家。
マコンドとブエンディア家とは強く結びついている。実体と影とのように。
マコンドの歴史を読むことがブエンディア家の歴史そのものを読むことであり、
ブエンディア家の孤独は、マコンドに住まう人々の孤独のひな型のようだ。


予言、予兆、奇跡の数々、そして、(個性的、なんてものを越えた)奇矯な人々。
内戦や暴力、差別など、社会の動きも濃い。激しい。
にもかかわらず、ひとりひとりは(その特筆すべき人生にも関わらず)なんとさびしく可愛らしい人間たちだろうか。
そして、この派手で激しい世界に揺さぶられながら、なぜか、呑気さ、穏やかさ、可笑しさが際立つ。
健全ではない生き方をするものほど健全に見える。
奇抜な生き方をするものほど穏やかに見える。
悲嘆にくれた人の行動には可笑しさが伴う。
何故かな。この家族一人一人と、その隣人たち一人一人から滲み出てくる無垢さ・善良さのせいかな。
目の前で何百人もが虐殺され、隣人が銃殺されているとしても、苦悩悲劇をくぐりぬけ、耐えてきた人たちであっても、
これは、失われることのない天与のもののように思う。


一家の孤独は、孤立する町の孤独(人の往来があってもなお孤独)に結びつく。
いや、まって。
最初は、人の個性の強烈さ、千客万来(?)の忙しさが、タイトルの「孤独」とかみ合わないように思えて、不思議な気がしていた。
後半、目の見えなくなったウルスラが、娘や息子にとっての愛の性質が、見た目とは全く違うことに気がついたとき、
初めて「孤独」という言葉が身近に感じた。
他のだれよりも、影になり日向になり一家を支えてきたウルスラ自身がずっと持っていた「孤独」の深さに気付いた。
大勢の中で中心になって忙しく動き回りながらも、自分のまわりが賑やかであればあるほどに、浮いて際立っていく孤独、
暗闇と静けさの中で、自分の中に深く降りていく孤独の充実、
わけもなくただ塵のように、いつのまにか少しずつ降り積もって行く孤独。


忘れ得ぬ、一人一人の人生を振り返りつつ考える。
もしかしたら、孤独と愛とは遠く離れているように見えるけれど、表裏一体なのかもしれない。
深く深く愛するほどに、孤独の内に深く深く埋もれていく。
純粋で、心やさしい人々ではないだろうか…


長い物語だった。時間をかけて、やっと読み終えた物語。
決して、続きが読みたくて早く早く、という読書ではなかった。
むしろ、一行一行に立ち止まり、前のページに戻り、確認し…なかなかはかどらない読書だった。
それでも、この本を読み終えるまではほかの本を手に取ることはできないような気がした。
百年の孤独』の「孤独」にからめられて呪縛されていく感じ。
読み終えてみれば…この本の中にはなんという嵐が吹きまくっていたことか、と思う。
最初から最後まで熱くて強い風になぶられているようだった。
そして、いきなりある一行の言葉とともに、何もかもが大きな手でわしづかみにされ、勢いよく天空に巻き上げられるのを感じた。


…百年は一夜の夢のよう。
マコンドは、
「先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、
澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった」
最初の方に出てきた一文をもう一度、しみじみと読みなおす。
ここから始まったんだね。