もうすぐ絶滅するという紙の書物について

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

もうすぐ絶滅するという紙の書物について


図書館からやってきたこの本は、分厚さといい、装丁といい、魔法書のような外観で、ちょっと畏れ入ったりしました。
のんびり読んでいて、気がつけば、返却日まであと二日ではないの。
予約して五カ月待った本なのだ。このまま返したら次にお目にかかるのはまた五カ月先だ。そんなに待てない。
ということで、びゅんびゅん飛ばしながら急いで読んだ。
本、こんな読み方しちゃってごめんなさい。


読み終えた本の天を眺めれば、読みながら挟んだ付箋がぴらぴらしている。
そのぴらぴらがあまりないところは、飛ばし飛ばし読んだところ。おもに稀覯本蒐集について書かれたところ。
ひねくれたわたしは思う。そんな敷居の高い本に用はないやいって。
でも、ある資産家が亡くなったとき、遺族のうち、「本だけが欲しい、ほかの遺産は何も要らない、」と言った男の真意は・・・とか、
ものすごく価値ある本をばらして、ページを一枚ずつ売るという古書店の話、とか、
挟み込まれた挿話は、とってもおもしろかった。
そして、やっぱり美しいのだ、本は。(ため息)


タイトルから推測して、
現代の(そして未来の)いろいろな技術の発展が、紙の書物を凌駕してしまうかもしれない、という危機感から書かれた本だろうと思った。
確かに、そういうことについても最初のほうに出てくる。
絶滅どころではないのだ、紙だからこそ他のどんな技術が消えても生き残るのだ。
きっと、こんなわかり切った話はいつまでも引きずらず、さっさとおしまいにしましょ、ということなんだ、とわたしは解釈した。


対談なのです。ウンベルト・エーコジャン=クロード・カリエール
「書物」というものをいろいろな形で、いろいろな方向から光をあてて浮かび上がらせようとしています。
系統だって、各章テーマに添って語りあっているようにみえるけれど、その実、かなりとりとめがなくなって、
あっちに脱線したり、こっちに脱線したり・・・でもそれが楽しい。
二人とも相当な読書家なんだなあ、と思う。そして、本当に本が好きなんだなあ。それが伝わってくるから楽しい。


おもしろかったのは、「珍説愚説礼賛」
エーコが定義する馬鹿と阿呆と間抜けの違い・・・可笑しい。
馬鹿が真面目に唱える説は、距離を置いて受け取れば笑い話みたい。
「歴史的には真実ですが、不適切」「馬鹿の発言はいつでも軽率です」という類の珍説愚説のさまざま。
自分のことを「忠実な恋人です」(カリエール)というくらい珍説愚説の愛好者である二人が次々語る話にくすくす。
でも、これ、全部、歴史上の有名人たちの発言、文書として残っているのよね? 紙の書物は怖ろしいのだ。


好きな話は、
カリエールが自分の書物との出会いについて語るくだりのうち、彼のおとうさんについて語ったところ。
本のない家で、カリエールの父は一冊の本だけを生涯何度も何度も繰り返して読んでいたそうだ。
今は、出版されている本なら、まずどんな本でも読めないことはないという時代で、図書館で毎週読み切れないほどの本を借りてくるわたし。
明らかに恵まれているわたしなのに、これほどまでに一冊の本だけを深く読み、深く親しむカリエール父の読書が、少し羨ましいような気がしてきた。
恥ずかしいくらい贅沢な話だけれど。自分の本の読み方の雑さを思った。


本を読むためにだけ、毎日地下鉄のホームに出かけていき、数冊の本と一緒に一日をそこで過ごす、という老人の話も心に残った。
エーコが子どものころ、自分は本が好きなのではなく、ただ読むのが好きだった、ということに気がつくくだりも共感とともに心に残る。
「読書依存症」という言葉にどきり。
わたしもきっとそうかも。
自分に読みこなせる本、という但し書きは必要だけれど、本を読んでいる状態が、一番自分にとって幸福なんだよねえ。なんでもいいのだ、本なら。
(いや、読書友だちのあの人もこの人も・・・ね、ね、思い当たりません? みなさま^^)
外出したとき、うっかり自分のバッグの中に本が入っていないことに気がついたときに陥るパニック状態は、
「読書依存症」というより、「書籍携行依存症」とでも名付けたい^^


まだまだ、興味のある話はたくさんあるけれど、いい加減に図書館に返却に行かなければなりません。
最後に、文中のカリエールさんの言葉を引用しておしまい。
『過去ほど活発なものはない』