刑務所図書館の人びと

刑務所図書館の人びと―ハーバードを出て司書になった男の日記

刑務所図書館の人びと―ハーバードを出て司書になった男の日記


刑務所と図書館。なんて不似合いな言葉の取り合わせだろう、と思った。
「昼間労働に明け暮れる囚人たち全員に、毎夕最低一時間、本が読める明かりを供給すべきである」
というモットーのもとに運営される刑務所図書館の司書・創作クラス講師を、二年あまり、著者は勤めた。
その著者がここで体験したこと、ここで出会った人々(受刑者・刑務官)について語ったエッセイでした。


罪を犯してここにいる受刑者だけれど、図書館での彼らや著者との会話・絡みを読んでいると、大胆に、錯覚してしまう。
寄宿学校の物語を読んでいるみたいだ、と。これは、ひとつの形状の変わった(かなりひねこびた)青春記なのではないかと。
たとえば、受刑者たちは、いろいろな方法でほかの房(ことに女性房⇔男性房)同士の連絡をとりあおうとする、その方法。
図書館書架の本に忍ばせた短い手紙であったり、房の窓に向かって宙に身振りで描いて見せる文字であったり。
見つけ次第始末しなければならないものなのは言うまでもないのだけれど、著者は、見逃したものも少なくなかったという。
紹介されたいくつかの文章は、まるで学生時代、わたしたちが授業中にまわした手紙のようなものもあり、ふふ、と笑ってしまう。
なかには、せつない思い(肉親への思いなど)が語られていて、はっと胸を突かれたり。
そうした手紙を受刑者たちの隠語で「カイト(凧)を飛ばす」「スカイ・ライティング」と呼ぶ。
「刑務所」という場所とミスマッチな詩的な響きを感じる。楽しい。


だけど本当は、そんなに甘いものではない、もちろん。
当然学校などではないし、更生施設でさえないのだ。刑務所は犯した罪に見合った「罰」を受ける場所なのだ。
彼らのほとんどは更生しない。出所したら、古巣に戻り、いずれまた刑務所に舞い戻ってくるか、死んでしまうか・・・
そして、鍵と、厳しい掟と、強面の(かなり理不尽な)刑務官に首根っこを押さえられている。


だから。だからなのだ。
図書館、それも著者のまわりにある不思議な空気の明るさに驚き、
ここが刑務所内であることや、利用者が犯罪を犯して収監された囚人であることや、日常のハードボイルドを一瞬忘れそうになるのです。
忘れられる空間もあったのです。


それは、著者自身の考え方の柔軟さ、自由さ、様々な文学や文字文化への愛、何よりも情の脆さ(?)に寄るところが大きいと思う。
そして、著者があまり偏見を持たず、受刑者ではなく図書館利用者として、あるいは人として彼らを見ているからだと思うのです。
そういう考え方・態度は、刑務所勤務には一番不適格でもあるようです。


でも、そうでなければ、そもそもこの本が生まれなかっただろう。生まれたとしてもちっともおもしろくなかっただろう。
「受刑者」のひとりひとりにこんなに親近感を抱くことはなかっただろう。


ジェシカ、ファット・キャット、チャドニー、C.C・・・もっともっとたくさんのあの人この人が、図書館の書架のかげから顔をのぞかせる。
長い刑務所暮らしのなかのほんの一時の図書館での時間、その小さな積み重ねのなかから、
犯罪者・受刑者という仮面の下の思いや、彼らの人生が浮かび上がってくる。
運のなさにやりきれない思いを感じたり、温かい思いに包まれたり、時々、ぞっとさせられる。
そして、これも刑務所勤務のタブーなのだけど、
たくさんの痛みをともにしながら、司書と利用者とのあいだに、少々風変わりな信頼関係が築かれていくのです。


また、この物語は、刑務所図書館の人々の物語である、と同時に著者自身が自分をみつめようとする物語でもあることが、
やがて見えてくる。
自分の来し方を振り返り、たくさんの出会い・わかれをくりかえし、
繋がりあえる友(!)や敵を作りながら、自分の生き方を模索し続ける著者。
やがて一つの決心にいきついた時、新しい始まりを感じていた。


塀の外であれ、なかであれ、図書館とは一体何だろう。
読みながら何度も問いかけられたような気がします。
読み終えたいま、図書館は、出会いの場所だと思っている。