コルシア書店の仲間たち

Koru
コルシア書店の仲間たち須賀敦子
白水ブックス
★★★★


ミラノの教会の一角にあったコルシア・デイ・セルヴィ書店は、カトリック左派という思想を分かち合う人々のいわばサロン的存在でした。
彼らの思想のとりでであり、灯台であったかもしれません。

  >コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともすると、
   それを自分たちが求めている世界そのもののように、あれこれと理想を思い描いた。
   そのことについては、
   書店をはじめたダヴィデも、彼を取り巻いていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。
   それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、
   若い私たちは無視して、一途に前進しようとした。

ローマに留学した須賀さんは、書店の創始者ダヴィデを介してこの書店とかかわりを持ち、いずれ、この店をとりしきっていたペッピーノさんと結婚することになります。

  >・・・私たちはなんとも心もとない夫婦だったにちがいない。
   お金もないのに、家具もまんぞくに揃っていないのに、
   本ばかり読んで本のはなしばかりしている。

ペッピーノさんが亡くなるまでのわずか5年の結婚生活でした。
この本の中で(いや、他の本でもそうだけれど)、夫ペッピーノさんの死について、須賀さんは多くの言葉を割くことはしません。
他の「仲間たち」の消息に混じって、むしろ埋もれるようにさらっと、ミラノで起きた多くの出来事の中の1つのように、扱っているのです。
あまりに濃い仲間たちの来し方行く末にまぎれこませることを須賀さん自身望んでいたのでしょう。それだけに余計に、須賀さんのペッピーノさんへの思いの深さを推し量って切なくもなるのですが。

5年の結婚生活の間に、この書店を介して出会った人々の顔ぶれは、生き生きと輝き、今もそこで生活しているように思えます。
奔放なダヴィデは突然の旅から帰って店の一角で詩を朗読しているだろうし、
神経質そうな目をしたやさしいカミッロは、それでも奥の部屋から出てくるかもしれない。
もちろんツィア・テレーサは彼女の特別な椅子に上品に座っているだろうし、実際的なルチアは店のあらゆることに気をくばっているにちがいない。
店の戸をあけて入ってくるのは、怪しげなじゅうたんをかついだミケーレだろう。

ほら、ちゃんとその光景が目に浮かぶのです。
外の明るさより一段くらい落ち着いた書店の灯かりのもと、集う人々の顔はほの明るい。
だけど、すでにコルシア・デイ・セルヴィ書店はこの世には存在しません。  

  >そのあと、わたしたちは、しばらくは一緒に、それからは、ばらばらに、それぞれの道を歩いた。

この本は、これらの出来事のあと、すでに30年を経て書かれたものでした。
30年後。時を経て、距離を経て、それでもなお生き生きと輝く人々。そして、30年経てなお当時の知己を「仲間たち」と振り返る須賀さんの思い出の鮮やかさ。濃さ。親しみ。
その理由はこの本の中の隅々にまで広がっていました。離れてもなお繋がり、
その後何度もイタリアに渡りながらもあえて会うこともなかった人たちであったとしても、互いに瑞々しい思いを持ち続けたことなど。

  >若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、
   私たちは少しずつ、
   孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野ではないことを知ったように思う。

須賀さんにとっても、この書店に集まった人々それぞれにとっても、この書店はひとつの理想郷だったのかもしれません。
かつてそこに存在し、その後はずっとそれぞれの胸のうちに存在したこの書店はたぶん一生彼らの人生を照らし続けたのではないかと思うのです。
若い日に、このような出会いがあったこと、そしてそれをずっと大切に持ち続けることができたことは、何にも換えがたい宝ではなかったでしょうか。

そして、わたしはこうして読むたびに須賀さんの文章に惹かれて行きます。
もったいなくて大切に読みたい一行一行でした。
この本きっとまた読みます。でも今は未読の須賀さんがまだたくさんあるのがうれしい・・・