『弟の戦争』  ロバート・ウェストール

 

弟の戦争

弟の戦争

 

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トム(ぼく)が小さかったころ、フィギスという空想の友だちがいた。
フィギスというのは、たよれるやつ、という意味で、どこに行くにも一緒だった。
やがて、弟のアンディが生まれると、トムは弟に夢中になり、空想の友だちは姿を消した。でも、トムは、アンディのことをフィギスと呼んだ。
兄弟はいつでも一緒だった。


アンディ(フィギス)は優しい子だった。目の前で苦しんでいる動物や人がいることが耐えられなかった。
庭でみつけた迷子の子リス、新聞に載っていたエチオピアの飢饉のさなかの子ども。フィギスは、一目みただけで、まるで何かにとりつかれたようになる。
彼らの悲しみ、苦しみがそっくりそのまま自分の痛みになってしまうようなのだ。


ある夜、フィギスは突然、聞いたこともない奇妙な言葉を喋りだした。(のちにそれはアラビア語である、とわかるのだが)
トムに呼ばれると、「自分はイラクの少年兵、ラティーフだ」と答えた。
ここにいるのは、本当にフィギス=アンディだろうか。
アンディのからだであるけれど、その目、表情は、トムの知らないものだった。
アンディは12歳。そして、その年―1990年、湾岸戦争が始まった。


「今、一万人死んでも、将来の百万人よりましさ」「やられるのは味方の兵じゃない。爆撃で奴らを粉みじんにしてから兵を送りこむんだからな」とトムの父は、言う。
「あなたはイラク兵にも母親がいるってことは考えないの? あの人たちはロボットみたいに鉄かなんかでできてるわけ?」と母は言う。
いつでも、大好きな父の肩をもちたいトムだったが、だんだん何もいえなくなってくる。
トムの傍らにはアンディがいる。アンディのなかにはラティーフ(と、フィギスと)がいる。彼の目には、見えないはずのイラクの大地が、仲間たちが、そして、戦争が見えている。
まるで絨毯を掃除するかのようにくまなく爆撃していくアメリカを先頭にした多国籍軍の「きれいな戦争」の下にいるフィギスを、トムはずっと見守り続けていたのだ。


きれいな戦争ってなんだ。
他国への爆撃を、野球やフットボールを観戦するようにテレビで観戦することか。


現実の私たちの生活の煩雑さのなかで、ただ今起きている戦争のリアルが希薄になる。
アンディに起こった事は、わたしたちを、今起こっていること(起こしていること)の最中に呼び戻そうとする。


ティーフにどんどん飲み込まれていくフィギス。
フィギスは、死線のぎりぎりで銃を抱えたラティーフとともに、イラク塹壕のなかにいる。
そうしたフィギスのからだによりそいながら、その瞳が、見えない何を見、何におびえているのか、トムは追う。
トムは、フィギスを取り戻したい、と願いつつ、もはやラティーフのこともほうっておけなくなっている。
そうして、トムのものの見方は少しずつ揺らぎ始める。
聞かされてきたこと、鵜呑みにしてきたことは、なんだったのだろう。


救いようのない大悪人と思っていたサダム・フセインが、普通の人に思えてくる。むしろ多国籍軍のスポークスマンのほうがおそろしい。
アメリカ人は世界中を食いつぶす化け物だと考えるラティーフ。その化け物に歯向かうフセインは、ラティーフたちには英雄なのだ、ということ。
アンディの主治医ラシード先生への差別(アラブ人への)に対して感じる理不尽さ、申し訳なさ。
ラシード先生は、トムにとって、実の父親が小さくなってしまったために空いた隙間を外側から埋める、もうひとりの父親のようにも思える。


フィギスってなんだったのだろう。
「フィギスはぼくらの良心だった」
トムの「たよれるやつ(=フィギス)」の正体は良心だろうか。
もともと不思議な力を持っていたアンディの、幼い日のやさしさは、アンディ独自のものではなくて、トムのものだったのでは?
トムの持つフィギスを、アンディが感知して(ラティーフのときのように)同化(?)していたのでは、と思う。
フィギスは、見えなくなってしまったけれど、なくなってしまったわけではない。
トムのなかでフィギスは少しずつ育ち続ける。
この本を読んだわたしたちのなかでも、きっと。