『柿の木』朽木祥/ささめやゆき(絵)(~「親と子の童話」より)

>> 柿の木 朽木祥(作)/ささめやゆき(絵)

家の光 2019年11月号 発行所:JAグループ 一般社団法人家の光協会 / 発行日:2019年10月1日 <<

 

 『柿の木』

『柿の木』作・朽木祥/絵・ささめやゆき (親と子の童話)を読む。


おじいちゃんの家の、道なりにずらっと植えてあった20本もの柿の木が切られてしまうことになった。市道が広げられることになったためだ。
どうやって木にのぼって柿をとるのか教えてくれたのはおじいちゃんだった、と「わたし」は思いだす。おじいちゃんとの沢山の思い出が次々。
そして……


この愛おしい童話が載っている雑誌『家の光』は、農家の人たちにとってはお馴染みのファミリー誌だ(少なくても我が家のまわりではそうだ)
「親と子の童話」として、様々な作家さんによる6ページほどのカラーの絵物語が、毎号載っている。昔に比べてずいぶん薄くなってしまったこの雑誌の、このページはずっと変わらない。
我が家では、おもに義母の愛読書だった。
働きもので、日がな一日外仕事をしていた義母が、お昼や夕飯のあとのひととき、この雑誌をゆったりと開いていたものだった。
その義母の膝の上にのぼり、するすると雑誌と義母との間に潜り込むのは、小さかったわが子や、そのいとこたちだ。親子童話のページを読んでもらうためであったけれど、ただ、おばあちゃんに甘えるためでもあった。
『家の光』の「親と子の童話」のページは、こんな風にして、読まれていた。うちだけではなくて、たぶん、うちの近所のあちらのおうちも、こちらのおうちも。


今回の朽木祥さん(挿画は、ささめやゆきさん)の『柿の木』で、「わたし」が、おじいちゃんと柿の木のことを、次々に思い出す場面に、わが家での、『家の光』を間に挟んだ、おばあちゃんと孫娘たちとの思い出が重なる。次々に思い出し、自然に笑顔になる。
今も、あの頃と同じように、あの家でもこの家でも、そのようにして、このページが読まれているのだろう。
そうであったらいいな、と、そんな思いにさせてくれる、『柿の木』の「わたし」とおじいちゃんの姿だ。
朽木祥さんの文章は、本当に美しくて、何よりも声に出して読みたい文章だ。
物語に込められた思いは、幼い人にも、大人にも、形を変えて届く。育てるものと育っていくものと両方に届く。


柿の木は、「わたし」のひいおじいちゃんが植えた木だった。その話も「わたし」はおじいちゃんから聞く。
「わたし」とおじいちゃんは、並んで縁側に座って、柿の木を見上げている。
おじいちゃんから聞いた話も、おじいちゃんと一緒に過ごした時間も、「わたし」のなかでちゃんと育っている。いつかたわわな実になるだろう。
ひいおじいちゃんから、おじいちゃんへ、それから、おとうさん、「わたし」へと、脈々と受け継がれていく温かい思い。このお話は、「わたし」一家の、大きな木のようだ。