『はるかな国の兄弟』 アストリッド・リンドグレーン (覚書)

はるかな国の兄弟 (リンドグレーン作品集 (18))

はるかな国の兄弟 (リンドグレーン作品集 (18))


リンドグレーンの作品のなかには、美しいが(わたしにとっては)ちょっと異質だと感じる、一連の作品がある。
たとえば、この本『はるかな国の兄弟』がそうだ。
乱暴を承知で、すごく簡単に言ってしまえば、これ、亡くなった子どもたちの死後の冒険の物語なのだ。
わくわくする、はらはらする、物語はほんとうにおもしろい。生前よりも死後のほうが輝く物語、とも思う。
私は、ずっとこの物語のことが気になって仕方がなかった。
なぜ、こどもの「死後」の物語なのだろう。
なぜ、子どもを死なせなければならなかったのだろう。


エーミールやカッレくん、ロッタちゃんたちを生き生きと描きだしたたリンドグレーンはなぜ、このような子どもたちを書いたのだろうか。
この物語の『死』はどういう意味なのか。折に触れては考えていた。
あれこれ読んだり訊いたりして「こういうことかな」と思うことはあったけれど、本当はわからなかった。


先日、スウェーデンのあるお墓の写真を見せてもらった。
小さな十字架が墓標だった。そこに記されている文字は、兄弟と思われる二つの名前と、亡くなった時の年齢なのだ。二人とも子どもだった。
この子たちはどんな子どもだったのだろう。なぜ子どものままでなくなったのか。事情は何もわからない。
この墓標に出会ってリンドグレーンは『はるかな国の兄弟』の着想を得たのだそうだ。


その話を知り、『はるかな国の兄弟』を「生きている子が死んでしまってからの物語」(死なせてしまって、と思うこと)と捉えるところからして、早まっていたのかもしれない、と思った。
「死」は最初にあったのだ。(物語が生まれる前から)
幼いままで亡くなってしまった子どもがいる。
この物語は、遺されたものが、死を悼むための物語ではないだろうか。
この世で大人になることができなかった子どもは、はるかな国で、新しい冒険をしているかもしれない。この世での痛みも苦しみも脱ぎ捨てて、元気にしているかもしれない。
そうだったらいい。
今は抱きしめることのできない子どもを、物語にかえて抱きしめる。



★以前書いた『はるかな国の兄弟』の感想はここです(2014.12.5.)