『フィフティ・ピープル』チョン・セラン

 

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

51人いる。51人それぞれを主人公にした10ぺージほどの小さな物語(章)が集まって、一つの作品になっている。
物語の舞台(周辺)は、おもに、ある病院だ。51人は、病院のスタッフであったり、患者であったり、その近所で仕事をし、住んでいる人であったりする。
さほど広い舞台ではないのだ。
だから、彼らは、他の誰かの物語の中に、友人として、親族として、同僚として、あるいは通りすがりの名もないだれかとして、あちこちに繰り返し現れる。


彼らの物語の中には、51人以外のもっともっと多くの人々が現れる。
繰り返し現れるあの人この人は、自分自身が主人公になる物語(章)がこの本のなかにないにもかかわらず、51人の誰よりも忘れられない存在になったりもする。主人公になれなかったのに、主人公以上の存在になることもある。


登場人物は老若男女、さまざまだ。置かれた状況も生き方も、ほんとうにさまざま。
読んでいると、この本一冊が、一つの町なのだ、と思えてくる。町の中を人びとがわが道を歩く。すれ違う。
そのすれ違いが楽しくて仕方がない。
道で、ふと誰かと目があって、ちょっと会釈を交わして「だれだったかな」と思って、「あ、そうだった! あの人だった、あそこで会ったんだっけ」と思いだすような感じを、読みながら何度も味わった。


忘れられないのは、病院に搬送されたが手遅れだった、あの少女。
他の何人もの人々の思い出の中で、だんだんとリアルな肖像になってくる。
生きた少女に出会うことがなかったことが残念で、この少女の「これから」が無くなってしまったことが惜しくてしかたがなくなってくる。


それから、息子の行く末を思いながら、「ずっと子どもでいさせてやることはできないのだろうか」と考えている父親の気持ちが好きだ。こんなこと、子どもは望んでいないのだけれど、本当は子どものことが見えていないことを告白しているようなものなのだけれど。ただ一途に子どもに寄せる、父の気持ちは愚かで寂しくて、でも、あたたかくて、かけがえがないのだ。


本好きな元司書のあのこの言葉は、ちょっとおもしろい。
「誰かについて想像するとき、その人よりもその人の本を想像することが多い。例えば、韓国十進分類法の百番台から二百番台(哲学・宗教)の本を合わせて十五パーセント、三百番台から五百番台(社会科学・自然科学・技術科学)の本で三十パーセント、六百番台から九百番台(芸術・言語・文学・歴史)で五十パーセント、定期刊行物を五パーセントぐらい持っている人ならいいな、というわけだ」


51人・それ以上の人々は、何度も繰り返し、違う人びとの物語の片隅に顔を出す。「あ、この人、ほんとうはこんな人だったのか」「あ、こんな面もあったんだ」と、他の人の視点から、その人の姿がだんだん見えてくる、深まってくるのを楽しんでいる。
少しずつの物語の、少しずつを重ねながら、いつのまにか多重的な物語を読んでいる。
悲惨な話もたくさんあったのだ。取り返しのつかない話もたくさんあった。ささやかな時間を大切に思う人も出てきた。
本当なら自分のことだけで精一杯のはずの人たちが、当たり前のように隣人や行きずりの人に差し出す手には、何度も温められた。
みんなそれぞれの人生を、それぞれの足並みでなんとかやっていた。


51人を緩やかに繋ぐ言葉は、「病院」、「トカゲ」のキャラクター、「ダンス」
それから、もうひとつの大きな繋がりがある――

 


作者チョン・セラン。大好きな『アンダー・サンダー・テンダー』の作者だ。
『アンダー…』のなかの彼ら(彼らに似た人)も、この本のなかを歩いているような気がする。
うん、きっといる。ほら、あそこに。