『アンダー、サンダー、テンダー』 チョン セラン

アンダー、サンダー、テンダー (新しい韓国の文学)

アンダー、サンダー、テンダー (新しい韓国の文学)


北朝鮮と国境を接する、韓国の町・玻州(パジュ)は、首都ソウルからそれほど離れていないのに、開発が遅れ、かなり荒れさびれた土地だったらしい。
この町から同じバスに乗って高校に通っていた六人は、当然家庭環境も性格も違うが、ずっと同じバスで顔を合わせるいわばバス仲間だった。
六人のうちのひとり「わたし」が語り手となって、嘗ての仲間たちのことを振り返る。


同じまちで育ち、それぞれの家族や親せきのことまでもよく知っていて、毎日同じ時間のバスのなかで行きかえりのまとまった時間を過ごす六人は、ちょっと特別な関係であった。
それぞれには、別の場面で別のもっと親密な仲間(家族、親戚、クラスメイト、恋人、別の舞台での友人たち)がいるはずで、そうした仲間たちと、濃密な時間を過ごしているかもしれないし、いないかもしれなかった。
いじめられたり、うまくいかない恋に悩んでいたりしたかもしれなかった。
六人は、それぞれ、それをなんとなく承知しながら、そっとしておくことができる関係だった。
べたべたしない。介入しすぎない。風通しがよい。彼ら六人の関係を見ていて感じることだ。

>そうしているうち、再び近づき、立ち去り、戻ってくるのだろう。ほかの友人たちと新しいグループをつくり、遠い街で暮らすのだろう。美しい友情が永遠に変わらないグループなんて、現実には存在しない。存在するとしても、私はそこに属していない。そう思いながら友人たちに会うのが、なぜか楽だった。

実際、彼ら、いろいろある高校時代だった。
だから、こういう仲間がいたことは幸せだった、と思う。


物語は、数々の(知らずに読み飛ばしていた)伏線を集めてクライマックスと言える大きな盛り上がりになる。それは大きな傷になって、ずっと後を引く。
そのまわりには、もっと小さな小山があちこちに物語の山脈を築いている。
あっさりしているはずの彼らひとりひとりの、その人らしい、それらの山への対し方が愛おしい。
でも、むしろ、そうした盛り上がりから外れた場所にある、ちょっとしたことが、今、わたしには、大切な場面になって蘇ってくる。


たとえば、友の制服の襟の汚れに気が付いた一瞬、とか。
あらゆる色・あらゆる編み方を使って誰も真似のできない、長い長いマフラーを編んでいた横顔、とか。
犬を探して恋人と歩いた道や、語り合う時の相手の指先の遊びとか。
叔父に傷つけられた友の家の前で立ち尽くす人の表情とか。
「君にはわからないよ」という囁き――なぜわかってくれないのか、と責めるのではなく、微妙に優しい断定だった、ということ。
バスの席も、変わった。いつも隣同士だった二人が、前の方と後ろのほうとに、別々にすわることになったりしたこと。


そんなささやかな場面、それらを削っても、物語に影響はないだろうに、そうしたことのどれか一つでも、この本から落としたら、この本は別物になってしまうに違いない。
だって、この300ページの、エピソードの寄せ集めが、一つ一つの小さな出来事が、彼らが、その時そこに確かにいたのだという「あかし」なのだ。


いまは、玻州は随分変わったらしい。
嘗ての六人は三十歳を過ぎて、あのころのままの六人ではない。
ささやかな事件やら、大きな事件やら、が、六人をかえていく。
遠く離れてしまったもの、近くにいるのに遠いもの・・・
これから先だって、わからない。きっと、変わっていく。
玻州を嫌い、玻州を出たかった、と言ったあの子は、長い旅の途上だ。「(ここに)ずっといられるようになるのはいつ?」との「わたし」の問いかけに、「おばあさんになったら」と答える。
嫌って、出ていきたかった街は、最後の日には戻ってきたい場所でもあるのか。
故郷は、あのとき、彼らとともにいた町でもあるのだよね。それは、なんだかうれしい。
読み終えて、玻州…すぐ近くにある、よく知って居る場所のような気持ちになっている。