『草原に雨は降る』 シェイラ・ゴードン

 

草原に雨は降る (心の児童文学館シリーズ (3-10))

草原に雨は降る (心の児童文学館シリーズ (3-10))

  • 作者: シェイラ・ゴードン,阿部公洋,犬飼和雄
  • 出版社/メーカー: ぬぷん児童図書出版
  • 発売日: 1989/03/10
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 ★

南アフリカの農園で、農園主の甥トリッキーと使用人の息子デンゴは一緒に遊び、大きくなった。
二人は親友だ。
と、思っていたのは、白人のトリッキーだけだった。トリッキーは何も知らなかった。何の疑問も持たなかった。


アパルトヘイトの時代だった。
デンゴは、自分の身の回りのたくさんの「なぜ」の答えを知りたかった。
彼はとても賢い少年だった。
やがて、彼は、ヨハネスバーグの学校に行けるようになり、そこで懸命に勉強する。今まで知りたくて仕方のなかったことが、どんどんわかってくる喜び。
遅れていた分をたちまち取り戻し、学年トップに踊り出る。そして、大学入試に備える。
でも、彼は気がついてくる。
この国の黒人教育の目的は、白人の言いなりになる黒人を作ることだった。
ヨハネスバーグではそのころ、抑圧された黒人たちがデモをしたり、生徒たちが授業をボイコットしたり、抵抗運動が盛んになっていた。警察や軍隊による弾圧も激しく、やがて、学校は閉鎖されてしまう。
デンゴは、それでも勉強を続けたいと思う。抵抗運動の学生たちからは自分たちの仲間に加わるようにと激しく要求される。彼はどうしていいかわからなくなる。


白人の中にも、今の状況は間違っている、と考える人たちがいる。
「そうした白人は良心を持っているから、黒人差別や、黒人のまずしさや、苦しみをまず黙って見ていられないんだ。また、デモをした黒人が投獄されたり、小さな黒人の子どもが栄養失調で苦しんでいるのを黙ってみていられない。そういったものを見ると心が痛むんだ。そうしたことがまわりに起こっているのに、自分たちだけぜいたくな生活をしているのがたえられないんだ」
「あの人たち(白人)は、われわれ(黒人)を助けてはくれるが、いま持っているものを手放そうとはしない」
「白人のギルバートさんは黒人の苦しみに手をさしのべてくれはするが、白人としての立場から世界をながめるだけだ」
「おまえ(白人)がおかしたまちがいは、なにがまちがっているか気がつかないことだ。それが罪なんだ。」
「でも、ぼく(黒人)の両親だって(現状を)うけいれている。苦しみや、貧しさや、不公平をそのまま受け入れている。(中略)犠牲者なんだ。いやそうであっても、そんなことはなんの言い訳にもならない。というのは、自分が不公平にあつかわれていると気づいたときから、ある意味では、その人はもう犠牲者ではないからだ。」


デンゴの運命を夢中になって追いかけながら、次々に現れる容赦のない言葉に、耳が痛くなる。白人のなかにも、デンゴの両親のなかにも、デンゴやトリッキーのなかにも、私自身の顔が見え隠れするのを意識しないではいられなかった。


高まる抵抗運動のなか、デンゴの選ぶ道を(その都度のたくさんの分かれ道)を、はらはらしながら見守る。悩んだり苦しんだり、怒りに我を忘れたり、停滞して沈み込んでしまったり。
でも、だれもがいう「賢い」彼の、澄んだ「賢さ」を信じていた。


デンゴが小さかったころの、本との出会いの場面が好きだ。
善意の白人から、子どものおさがりの本が送られてきた時、その大きな箱を家に持ち帰るまでの間「心がヘリウム風船のように今にも飛んでいきそうだった」こと、(あまりにも)ささやかなその住まいで、ろうそくのゆらゆらゆれる明かりの中で、本のある家が魔法の城のように思えたことなど、懐かしいような気持ちで振り返る。


デンゴとトリッキーが遊んだ農園は、トリッキーの祖先が、手に入れたものだ。
でも、もともとはデンゴの祖先たちが平和に暮らしていた場所だった。
土地は買うものだ、と当たり前に思っていたトリッキーの祖先たちと、土地を売り買いするという意識がまるでなかったデンゴの祖先たち。そこに二種類の人間がいたのだということに、当時はだれも思いつかなかった。


農園は、ここのところ何年も干ばつが続いている。
タイトルの「草原に雨は降る」の草原は、干ばつの農園のことだろうか。
いまだ雨の降る見込みのなさそうな農園に、本当に雨が降るとき、それがデンゴにとってもトリッキーにとっても恵みであってほしい、と思いながら、本を閉じる。