『ニューヨーク145番通り』 ウォルター・ディーン・マイヤーズ

ニューヨーク145番通り (Y.A.Books)

ニューヨーク145番通り (Y.A.Books)


ニューヨーク145番通りが観光ガイドに載ることはない。
住んでいる人びとのほとんどは、黒人、ヒスパニックなどだそう。
「ここに住む人の半分は仕事を持っていない。だからみんないつも玄関ポーチにすわるか、なにもしないでただそのへんにつっ立っている」のだそうだ。
この街を舞台にした物語が十。


暴力、麻薬が横行する。警官は、この街に住むだれの味方でも無さそうだ。
ただその場にいただけの人が何かの事件に巻き込まれ、警官に「動くな」と銃を向けられて、「おれにだって人権がある」とうつぶせのままつぶやくのだ。
それでも、『ハーレムの極悪犬』で起こったことに比べれば、まだまし……
『ハーレムの極悪犬』は、ここがどういうところか、ビターに描き出している。


ひどい街、怖い街、と思うけれど、ごく普通の人たちが、ここには、ごく普通に暮らしている。
恋をして、友だちを心配して、喧嘩をして、おせっかいをしたりされたり、説教したりされたり、誰かを助けたり助けられたり、噂に花を咲かせたり・・・どこの町にもあるような話がころがっている。
でも、ほかよりも人々の繋がりが濃いと感じるのは、ここがやはり特別の町だからかもしれない。(仕事はないけれど、時間だけはたっぷり持っているってこともあるし)
なんとかしてやりたいけれど何もできない、と嘆く前に、「そうだ、あの人に相談してみよう」と思い浮かべられる顔がいくつかあるって、いいな、と思う。
たとえ話さなくても(話せなくても)、みじめでどうしようもないときにも、どこかでだれかが、黙って待っていてくれたりもする。
たとえば『アンジェラの目』に出てくる肉屋のロドリゲスさんみたいに
「ときには、とても悲しいことが起きる。忘れてはいけないと思うことでも、たいていは忘れた方がいいもんさ」なんて言って。
あっけらかんとした明るさと、今にもこぼれそうな笑いが、どの顔にも隠れていはしないだろうか。犯罪も理不尽な苦しみも多いこの街に暮らす人々だから、かもしれない。
たとえば、『あるクリスマスの物語』のマザー・フレッチャーが言う。
「生き抜いていこうと思ったら、みんなが正しい行いをすることを期待してただ待ってるなんて、むりなんだよ。期待すればするほど、傷つくものだからね。でも、正しい行いをしてもらった時のために、準備はしておかなくちゃいけない。そうすれば、生き抜いたことがむだでなくなるってもんさ」って。
そして、(驚いたことに)この貧しさの塊みたいな町で、少年や少女は弁護士や医者を目指したりもする。
『ストリート・パーティー』のスクイーズィは言う。
「ある意味、この通りってこうなんだなと思う。ひどいことをするやつもいるけど、たぶん、ほとんどの場合、チャンスさえあれば、まともになれるんだ」
チャンスさえあれば……
たぶん、最低の町なのだろう。でも、ここから、人々のパワーが、最低という言葉を押し上げている。


この短編集の最初の一話も、最後の一話も、わいわいと人が集まる話だ。(たぶん、この本が、人の集まりでできているのだ。)
同じ人間の葬式で始まり、結婚式で終わる。
逆ではない。
同じ人間の、「葬式」で始まり、「結婚式」で終わるんだよ。
作品の並びの粋なこと。