『ジョージと秘密のメリッサ』 アレックス・ジーノ

ジョージと秘密のメリッサ

ジョージと秘密のメリッサ


ジョージは十歳。男の身体に生まれついてしまったけれど、女の子だ。
トランスジェンダーの人は、権利をみとめられないことがあるんだよ」
控え目な言葉でジョージは言うけれど、ジョージのこれまでの日々の苦しみ、痛みは、並大抵なものではなかった。


裏表紙には「BE WHO YOU ARE. ありのままの自分で」と書かれている。
ありのままの自分でいる、それだけのことが、なぜこんなにも困難なのだろう。
母親や親友にさえ秘密にし、「ふり」をして、彼女はずっとひとりで耐えてきたのだ。今、彼女は、たった10歳なのだ。
「男の子のふりをするのは、ほんとうに苦しいんだ」というジョージの言葉が突き刺さる。

彼女の苦しみの一番大きな原因が、本人のありようのせいではなくて、周りの人たちの無理解ということは、何よりもショックだった。


「親は子どものあり方をコントロールできませんけど、ささえることは、まちがいなくできる」と、言ったのは、ジョージの学校の校長先生だ。
わたしがトランスジェンダーという言葉を知ったのは、大人になってから。テレビドラマからだった。
けれども、言葉を知らなくても、自分とはちがうありようの人がいることは知っていた。知ってはいたけれども、それ以上、理解しようとはしなかったのだ。
相手を理解しようと努めることは、きっと一番最初の「ささえる」ことになるのではないだろうか。
最近でこそ、様々なありようを持った人たちのことが文学作品などにも積極的に書かれるようになってきたと思う。
だけど、それぞれに多様なありようを持って生きている人たちを、性的マイノリティ、LGBTなどと、ひとくくりにして呼ぶことは、どうなのだろう、と、丁寧で繊細はジョージの心の内を読みながら、ずっと考えていた。


この本のなかで、ジョージは自分のことを話す時、「ぼく」と「あたし」二種類を使い分けていることが興味深い。
(原文はどうなのだろう。最初から最後までずっと変わらないのだろうか)
最後のほうでは、「あたし」という言葉が、何度も何度も出てきて、踊っているようだった。