『海に向かう足あと』 朽木祥

海に向かう足あと

海に向かう足あと


読み終えて、苦さと愛おしさを胸に、美しい表紙をずっと見ている。
恐ろしい物語だった。同時に、ささやかな生活への慈しみがどうしようもなくあふれてくる。


風色湾から船は出るのだ。
船の名まえは、風の竪琴「エオリアン・ハープ」。
『風の靴』の「アイオロス号」のクルージングを引き継いだみたいな始まりに胸はときめく。
そして、六人のクルーや、彼らを巡る人びとの顔ぶれ。みんな大人であるけれど、その横顔のそこかしこに、これまで読んだ朽木作品の登場人物たちのおもかげが感じられる。
あの子もこの子も、もしかしたらこんな大人になり、こんなふうに暮らしているのではないか、と思って。
やがて、そういうふうに考えるのを止めた。
彼らにこんな未来が用意されているのだとしたら、たまらなくなってしまって。


読みながら、「あれ・・・」と思った。おかしいな、読みにくい。
美しい文章である、流れもある。しかし、それが何度もぶつっと寸断されるような気がするのだ。(たぶん意図的に)
そうした文章の流れに、心ざわつき、得体の知れない恐れや不安を感じるのだ。
思うに・・・
フィクションの物語であるけれど、背景、という以上に、かなり色濃く現実が混ざっているからではないだろうか。
現実、というよりも、現実世界に滞る目に見えない空気が。
むしろ、この空気を伝えるために、物語が存在するようにさえ感じられた。
海も空も陸も、そして人も美しい。犬たちも。楽しいはずのものをたくさん見たし、本棚の書名には心惹かれる、おいしそうなご馳走はこれでもかってくらいに現れる。それなのに、文字を追う事が苦しくなってくる。


朽木祥さん初のディストピア小説、と聞いていました。
ディストピア・・・Wikipediaでは、「一般的には、SFなどで空想的な未来として描かれる…」との記述がある。
しかし、この物語の舞台は未来ではなかった。
時代は今、このときであり、舞台はここからそう遠くないところ、行ったことのある場所で、行きたい場所で、そういう人がそこで暮らしていることを知っている場所でもある。
ディストピアは、未来ではない。架空の都市でもない。
ディストピアは、ここだ!
――そのことが心底おそろしかった。


朽木祥さんは、「ヒロシマ」をずっと書き続けてきた作家だ。
八月の光・あとかた』のあとがきの中で、このように語る。
ヒロシマを記憶するということは、未来に二度と同じ過ちを繰り返さないよう警戒することと同義でもあります」
未来を警戒すること――何を杖にして、警戒しつつ生きていくのか・・・
朽木祥さんの物語の主人公たちは、多くが、大切な人(母、祖父、友…)を亡くしている。大切な人は過去の人なのだ。
けれども、それら大切な人々は、主人公の思い出のなかで、在りし日の生き方を留め、大切なものを思い出させるよすがともなり、色あせることはないのだ。
朽木作品は、過去から、(警戒をこめての)負の記憶とともに、よりよきものを、宝物のように手渡してくれたのだと思う。
この本には、そういう人はいない。
・・・いいえ、いる。いる。シンボルスカのあの美しい詩句が現れる。
言葉が、すでに手遅れかもしれない世界から、もしかしたら間に合うかもしれない読者に手渡されようとしている。
主人公の言葉「結局おれたちは・・・ここまできてしまった」の、そのちょっとだけ手前にいる読者に、小さな祈りをこめて贈られる。
受け止められるのだろうか、わたしたち・・・