『わたしの中の遠い夏』 アニカ・トール

わたしの中の遠い夏

わたしの中の遠い夏


旧友(?)のロニーが死んだ。
マリーエとスタファンの夫妻は、新聞広告でそれを知った。
五十代後半夫婦の静かな暮らしが、ふいに揺れた。


マリーエは、スタファンというパートナーを持ちながら、ロニーに恋をしていた。もはや30年も前のこと。過ぎ去ったこと。
・・・ほんとに過ぎ去ったのだろうか。


三十年前。
湖の畔の夏の家。
毎年、ここで夏を過ごす20代の若者たちのグループの日々が、マリーエの回想のなかによみがえる。
純粋に理想を語り、自由と連帯を謳歌し、奔放でいながら、狭く囚われていた。
細かい諍いなども、あちこちで起きてはいたし、それぞれ、口に出せない苦しみや苛立ちを抱えてもいた。
秘密もあったし、小さな裏切りもあった。
だけど、わたしには、読み終えたいまも、命に満ちた夏の群像が眩しくて仕方がない。


マリーエは、のちに当時の自分の姿を映したフィルムをみて、自分があまりに夢みるような表情をしていたことに驚く。
だれもが多かれ少なかれ夢見ていた。夢のなかにいたのかもしれない。


人は自らの願望や幻想によって、無意識のうちに過去の記憶を塗り替えてしまうことがある、という。
マリーエだけではない。
だれもが。
さしあたって、この物語の登場人物たちの、ひとりひとりのあの場面この場面をふりかえりつつ、これを当人は、どのように覚えているだろうか、と思う。
それは、他の、その場にいた人の覚えているものと、同じものであっただろうか。


それが、時がすぎてしまったとき、嘗ての仲間には会いたくない、と思う、ひとつの理由かもしれない。「若かったね」と肩たたきあうこともできない。
夢をみていたのだ、きっと。
それは極めて個人的な夢であり、物語であるから、たとえ、そのときを一緒に過ごした同士であっても、今、その時代を振り返って共有することはできないのだろう。
あの夏の家に集った七人(八人)のだれを主人公にしても、きっとまったく異なった物語が生まれるような気がする。
あるいは、マリーエの娘、ロニーの家族のだれか・・・
読めるものなら読んでみたい・・・


マリーエには、二つの人生があったのかもしれない。
選んだ道と、選ばなかった道と。
五十をとっくに過ぎて今、二つの道の狭間で、道に迷ってしまっているような自分を見出して途方に暮れているような彼女。
短い数日のうちに、嘗て見えなかった真実(ほんとに?)が、少しずつ見えてきて、その都度、様々な意味が二転三転する。


最後の場面では、さらに時を経て、初老を迎えたマリーエとスタファンの横顔を見せられる。
二つの道が一つに、溶けあったように思える横顔である。


見えないところで、変化し、繋がっていく物語がある。
その物語は、いまはマリーエだけの物語ではない。
共有できるものもあるし、共有できないものもあるに違いないけれど、そのままに。
さらに小さな物語を編みこみながら、豊かに。夫婦の、家族の物語に育っているように、わたしには感じられる。