『若い小説家に宛てた手紙』 マリオ・バルガス=リョサ

若い小説家に宛てた手紙

若い小説家に宛てた手紙


小説とは、小説家とは、目指すべき方向は、極めるべきは…… リョサは、若い小説家に宛てて書く。
文学とは何か、文学の存在理由は何か、という話から始まり、徐々に細かな技法(これも文体の話から始まって徐々に細かいところへ)の話になっていく。
それは、抽象から具象へ、全体から細部へ、漠然とした遠景からよりくっきりした近景へと、景色が移り変わっていくさまを見ているようでもある。


しかし「識字率が低く、本を読む人、まして小説を買って読む人など数えるほどしかいないペルーのような国(訳者解説より)」で、この本は、若い小説家(志望者)に宛てるとともに、作者が自分自身に宛てた手紙でもあっただろう、と思う。
この国で、小説家として生きていくという思い。
文学を深く掘り下げれば掘り下げるほどに募る憧れや悲しみ。
文学の存在理由は「現実に対する不信」である、と言いきるリョサの言葉に圧倒され、のほほんと本を読んでいるわたしに、この本の感想なんて書けない、と思う。


一方で「人生の速い時期にさまざまな人物や物語を創造するというのは・・・」(P11)を読みながら、私がぼんやりと思い浮かべたのは幼い子どものことだ。
「大きくなったら何になる?」との問いかけに「消防士さん」「大工さん」「お花屋さん」「看護士さん」と具体的な職業を上げる子がいる一方で「王様」「お姫様」「魔法使い」「アニメのヒーロー」などを上げる子がいることを思う。大きくなることはあまりに遠く漠然としすぎていて、ただいますぐにこの身を脱ぎ捨てて別ものになり変わることを夢見るのとどう違うのかわからないのかもしれない。
そうした子どもの「大きくなったら」の姿もまた、一つの物語なのだなあ、と漠然と思っていた。
文学の存在理由が「現実に対する不信」であるなら、子どもが大きくなるにしたがって、霧の中に隠れていた現実が少しずつ見え始めたとき、物語を紡いできた子どもは、文学の力を借りながら現実をよりしっかりと見据えることができるのではないか、自身の立ち位置を振り返ることができるのではないか。徒に幻滅することなく。
子どもがこしらえる物語は、その準備にもなっているのではないか、とそんなことを思っていた。


正直、抽象的な話は、私にはちょっと難しい。何度も読み返して、わかったようなわからないような。
しかし技法の話となり、たとえば、「入れ子箱」「隠されたデータ」「通底器」などの章が、具体的に作者・作品を例にあげて解説されると、たちまち夢中になってしまう。
ことに「隠されたデータ」については、漠然と読み漠然と意識していたテーマが、明るみに出されたようで、スリルを感じた。


この書簡集(?)は、小説を読む者にとっては、めくるめく文学の世界への招待状のようだ。
そして、ただむさぼるように読んでいた一作品一作品がどれほどの宝であったか、気づかせてくれる。
全体と細部とにいきわたった作家の魂に思いを馳せる。小説が書かれることへの敬意が湧き上がってくる。