『旅のスケッチ』 トーベ・ヤンソン

旅のスケッチ: トーベ・ヤンソン初期短篇集 (単行本)

旅のスケッチ: トーベ・ヤンソン初期短篇集 (単行本)


デビュー作『大通り』ほか、どれもヤンソン二十代のころの作品集。
訳者あとがきによれば、ヤンソンは1934年、ドイツに伯母を訪ねたことを皮切りに、ヨーロッパのあちこちを旅行したのだそうだ。
この作品集の舞台が、ヨーロッパのあちこちの観光地を舞台にしたものであることや、主人公が旅行者であることが多いのは、その体験がもとになっているのだろう。
若いトーベの小品たちも面白く読んだが、訳者あとがきによる、彼女の足跡がおもしろい。
ことにドイツで(ナチスが第一党であったドイツで)伯母にわざわざ家の外に連れ出されて、母シグネへの伝言を託されたことや、伯母夫婦の当時の情勢に対する考え方の温度差など、興味深いことであった。


どの都市を舞台にした作品のなかにも、旅行者である若いトーベがいる。
旅行者の目で町を、人を見まわし、そして、芸術家の卵として、自分自身を醒めた目で(ときには痛烈な皮肉をこめて)見つめているように思える。
自信と自尊心と自虐と、そして、孤高であろうとしながら、とても繊細で寂しがりやの若い人の姿が見えるような気がするのだけれど。
『大通り』のムッシュ・シャタンは初老の男であるが、こうありたい、という背伸びした思いと、自分の本当の姿とのギャップが冷めた笑いを誘う。
彼が最後に見届けた二人の男女は、『鬚』の二人の姿のようにも思う。そして、この二人はムッシュ・シャタンが二つに分裂した姿のようにも感じてしまう。


『サン・ゼーノ・マッジョーレ、ひとつ星』のヨランダが、この作品集のなかで一番気になる人。大きな自尊心は、生活のみじめさに押しつぶされはしない(・・・いや、本当はみじめで寂しくて、仕方がないのだろうに。)
彼女のみじめであるけれど、美しい日常が愛おしい。
最後の四行が大好きだ。「よれよれの絹のばらの花」まさにヨランダそのものだ。よれよれの花が、その日、コートの襟にとまって誇らかに真っ直ぐ顔をあげていたことだろう。


『カプリはもういや』は、訳者あとがきに書かれていたドイツの伯母夫婦の姿と重なるのだ。
でも互いに抱き合った姿、「カプリはもういや」というその言葉は、ナチスの影に覆われたヨーロッパのどこにも心穏やかでいられる場所を見出せなくなってしまった人びと(作者?)の絶望の声のようだった。
この作品が一番最後にあることが、苦い後味になって残る。