『イタリアのしっぽ』 内田洋子

イタリアのしっぽ

イタリアのしっぽ


この本のタイトルを知ったときから、イタリアが犬の形に見えてきている。
耳の大きな犬が後ろ足で立っているように見える。
しっぽといったら、カラブリアからシチリア島のあたりかな。


著者が子犬と出合うところから始まるエッセイ集は、人とともに暮らす犬猫、動物たち(イヌ、ネコに、タコも、虫たちも!)の物語でもある。
動物と人とがよりそっている姿を見ると、私は、なんとなく、ほんのちょっとだけ寂しくなってしまう。
世界にその二人しかいないみたいな、切ないような、心細いような気持ちになってしまうのだ。
それから、その二つの影があまりに完璧に美しすぎて、その風景から締め出されたような寂しさを感じることもある。
動物と人がいるところが、たとえ大都会のまんなかであっても、世界のはてのように感じるときもある。


内田洋子さんの出会った様々な人びとの物語だけれど、今度の本では、一人ひとりの寂しさを特に感じてしまった。それは、彼らの傍らに伴侶動物がいるから。
大勢の人に囲まれて忙しくしていても、大切な人と一緒にいても、一人でいるときよりもずっと寂しい時がある。ずっと寂しい人もいる。
そういう人の物語ばかりが心に引っかかっているのだ。
獣医師として成功しているルイザ(『犬を飼う』)、デザインの評論家として活躍しているレッラ(『猫またぎ』)、90歳にして美しい気品を保持するリア夫人・・・
みんな、それぞれが抱えた困難を乗り越えて現在を勝ち取ったのだ。
けれども、そのために置いてきてしまったものもあった。誰にも見せずにしっかりとしまい込んだ思いもあった。
犬は往々にして飼い主に似てくるのだ、と聞く。
ルイザやレッラたちは、ともに暮らす動物たちに自分自身の影を見ているのではないか、とちらっと思う。
誰にも見せることのできなかった自分、遠い過去に置き去りにしたもう一人の自分と、一緒に暮らしているのかもしれない。


人が、生きて重ねてきたもの、背負いこみ膨らんできたものは、ときには重たくて、時々、もてあましてもいる。
不器用さ、頑固さを引きずりつつ、持て余しながら一日一日を暮らしている人もいる。
「なぜこんな風に生きてしまうのだろう。別の生き方をしたらもっと楽なのに」と思うこともあるのだ。
でも、ほんとは、そんなふうに楽になることなど望んではいないよ、と開き直ったりもする。


人と暮らす動物たちは何も意見をしない。ありのままの互いを褒めもしなければけなしもしないで、ただ一緒にいる。それはきっと心地よい。
動物たちは同居人のありのままを、その不器用さも頑固さもそっくりそのまま、受け入れる。
動物たちの瞳の中には、「人」がいる。ありのままの「人」がいる。賢そうな瞳で、見つめている。
もしかしたら、人は、動物に語りかけながら、動物といっしょに時間を過ごしながら、自分自身に語りかけ、自分自身によりそっているのかもしれない。


人が動物たちと暮らす理由を思っている。
一言で片付けるわけにはいかない、さまざまな理由のうち、『要るときに、いてくれる』のリア夫人の「回帰点」という言葉が心に残る。
「身繕いや話し方、日々の習慣は不変であり、周りをほっとさせ、辿りつく確かな場所」
遠くへ、遠くへ、先だけをみつめてどんどん歩いてきた自分が振り返ったときに、そこにあるもの。そこにいるもの。確認して、また前を向くことのできるもの、場所。
そんなことを思いながら「回帰点」という言葉をゆっくりと味わう。


最近、我が家にも、子犬がやってきた。
ばたばたし、ふりまわされ、おろおろしたりしながら、たくさん笑っている。
たくさん慈しんで、そのうちに、自分自身が慈しまれているような気持になる。
「なぜ(犬を飼う時期は)今なの」といろいろな人に聞かれた。いろいろな理由があるにはあるけれど・・・本当はなぜなのかな、なぜ今なのかな。
ときどき、じっとこちらを見つめるその顔に、何もないはずの宙を凝視する顔に、はて、何を見て何を考えているのかな、と思う。
「何も考えてなんかいないよ、メシまだかと思ってるだけだよ」と家族に笑われながら、
いつか、この子も、わたしの「回帰点」になるかな、と思ったりする。