『イギリス人の患者』 マイケル・オンダーチェ


1945年。終戦間近。イタリアの僧院。
ここは戦時中、野戦病院として使われていたが、戦線が北上し、患者も医師も皆、北に移っていき、今は静か。
ここに残ったのは一人の若いカナダ人の看護婦と一人のイギリス人の患者。
飛行機墜落事故でほとんど黒焦げになって動くことができないこの患者を置いて移動することを彼女は拒んでここにいる。
そこに、彼女の父親の旧友がやってくる。彼は戦時中、連合国のスパイとして働いた、イタリア人の元どろぼう。
そして、連合軍の爆弾処理係であるインド人の工兵が現れる。
ほとんど廃墟になってしまった僧院で、四人、一緒に暮らし始める。
戦時中とは思えないほどの静けさと安らぎの時間。一つの調和。濁りが沈んだ水の上澄みのような・・・
平和な時代以上の平安を感じ、この四人の時間が好きだと思う。戦時なのに。


長く、ひどい戦争に、それぞれ傷つき、その傷を持てあましてここにいる四人。
それぞれ、まったく違った次元の世界を漂うように旅しているようだ。
旅の途上で腰を下ろしたその場所で、ふと顔をあげたら彼らがいた、そんな感じ。
そして、ひととき安らぎの時間を分け合い、やがてそれぞれ自分の旅を続けなければいけないのではないか。そんなふうに感じていた。
話しだせば、体中いたるところから血がふきださずにはいられない、そんな話しかない四人だ。戦争の前線を生き延びてここにたどり着いた彼らだから。
話したくない、聞かなくてもいい。ほんとに? ほんとは話したかったのかもしれない。話す機会を探していたのかもしれない。血は流れたがっていたのかもしれない。
砂漠でのできごとはサンテグジュベリの「人間の土地」を思い起こさせる。
異文化の狭間にきわどい細道を見出そうと静かな緊張感に身を置く青年の寡黙さに惹かれる。
恋の残酷な行方が、いまだに、身を苛んだりもする。
戦中のごたごたの中に埋もれたミステリなども蘇る。
それらは彼らの束の間の平和をよぎる過去の残像。残酷なおとぎ話のよう。
モルヒネの残り香のなか、遠く近く、揺れる・・・
戦線は北上した、という。もう間もなく戦争は終わる。


イタリアの夏の夕べ。
廃墟の夕べの静けさが、詩のようだ。(土の匂いがする詩)


「・・・なぜ私たちのようにだまされなかったのですか」
という言葉は最後の方に出てきた。
騙される・・・
本当はみんな知っていた。騙されていることを知っていたはずだ。知っていることを自分自身に隠し、進んで騙されることを選んだのだ。
それは、四人だけではなくて、読者のわたしもそうだった。
閑かだった。澄み切った空があった。工兵は隠された爆弾を次々に処理し続け、でも、そこに、何かが追いかけてくることはもうない、と思っていた。
―ぼんやりと揺蕩う心地よさになじんだ頭がふいに覚醒させられた。


それが、どんなに美しくても「騙し」から生まれたものなら、やはりそれはまやかしだろうか。
目が覚めたとき、自分が死人たちの上に座って居ることに気がつく、ということもありなんだ。
目が覚めて初めて見たそれも、本当は見る前から知っていたはずだった。ただ見ることを拒んでいただけだった。
それが今、身にしみてわかった。


それでも、本当にそれはまやかしだったのかと、尋ねたくなる。
それがあまりにも美しいから、いつになっても、振り返らずにいられない。
決して戻ることができない嘘の平和の中に、嘘ではないものが生まれたなら、それはどうしたらいいのだろう。