『すべてきみに宛てた手紙』 長田弘

すべてきみに宛てた手紙

すべてきみに宛てた手紙


長田弘さんのエッセイは、エッセイというより「手紙」という言葉が相応しい。
長田さんは、不特定多数のだれかではなくて、わたし(それからあなた?)に直接語りかけているようだ。
難しい話も、深刻な話も、重たい話であっても、読んでいるうちに、ざわざわする心が静まってくる。この本が手紙だから。


ことばについて、あかりについて、読書について、微笑について、音楽について、そして時間の流れについて、語られますが、どの手紙のテーマも、少しずつ別のテーマの手紙の中に混ざりこんでつながっているような気がします。静かだけれど、ぶれることがないし、澄み切って厳しいけれど、懐が深く穏やかなのです。
そして、先日以来わたしの読んでいた本や、気になっていることなどがとりあげられている不思議。まるでこちらのの気持ちを心得たうえでの返信のように思えて、より一層この本が大切に思えました。


小川洋子さんの『ことり』を読んだあと、ことばについてとりとめもなく考えていたのだけれど、長田さんの手紙は「ことば」の深い豊かな世界に案内してくれる。

>生まれた子どもがこの世で最初にもらうのは、名。つまるところ、この世と人を、またこの世で人と人をむすぶものは、ことばです。
そして、人がめいめい違った自分の名をもつように、ことばというのは、多様なものをたがいに認めあう方法です。ことばがあなどられるところに、人の、人としてのゆたかさはない。わたしはそう思っています。
>灯りの下に自由ありき。灯りの下の自由は言葉なりき。
>詩は(私にとっては)語るためのことばではありません。黙るためのことばです。
大切にしたいのは、世界をじっと黙って見つめることができるような、そのようなことばです。声がことばをもとめ、人が言葉に自分を求め、そして、ことばになった声からひとの物語がそだってゆく


いつもお邪魔するブログで目にして、以来ずっと気になっているハンナ・アーレントの名前がでてきたときにはびっくりしました。
スペシャリスト』という映画の、アドルフ・アイヒマンの裁判について語られた長田さんの言葉のなかから。

>アドルフ・Eと呼ぶほうが、ほんとうは正しいのかもしれません。たまたまアイヒマンという名だったが、ほかの誰であってもたぶん同じだったろう。一人のスペシャリスト。スペシャリストは自分の言葉をもちません。自分自身を、自分の言葉で定義しません。
自分の言葉を持たない人間は「一覧表のような」悟性と「機械的熟練」の知恵しかもったことがないと言ったのは十八世紀の詩人シラーでした。
・・・ここでも、やっぱり「ことば」なのでした。


「戦争の言葉」についての手紙も心に残ります。十年以上前に書かれたこの「手紙」は、時を超えて、今の時代に開封されるのを待っていたようです。

>戦争の言葉は、三つあります。
戦争前と、戦争の間と、戦争後の言葉です。
戦争前の言葉は自己本位を正当化し、意味づけと栄光を求めます・・・
聞こえてくる空虚で手前勝手な(そして幼稚な)言葉たちを思い出し、背中に汗が浮いてくる。そして二つ目の言葉、三つめの言葉は・・・言葉がなくなるときは・・・
背中の汗ではすまなくなる。それを経験することがないように、実感することがないように。
>過去、ではありません。過ぎ去ったのは、未来です。
とも。
>『スペシャリスト』は観るものに、「考える」ことをうながします。たずねなければならないのは、いつだって、「考える」存在としての人間のあり方です。


長田さんは、闇にあかりをともします。
長田さんの手紙の中には、たくさんの言葉の灯りがちりばめられているのです。(言葉は灯りだったのだ!)
長田弘さん自身の絵本『森の絵本』をとりあげ、

>『森の絵本』の主人公は、声です。声という「見えない」主人公に誘われて、心の森のなかに導かれて、静けさにじっと耳をかたむけよう。すると、きっと聞こえてきます。いつもいつも、ずっと探しもとめるものが。
ことばが。
ことばになろうとしていることばが。
あるいは、けっしてことばにならないことばが。


引用が多くなってしまった。感想を書く、というより、わたし自身の心覚えのための抜書きになってしまった。
それでも、まだまだ、忘れたくないことばがたくさん、この本のなかにはある。ページの中で灯りになって輝いている。


感じると考える、の違いって、なんだろう。もしかしたら、ことばと関係があるのかもしれない。
心に浮かんできたもやーっとしたものたちを捕まえてそれぞれに名前をつけて、ちゃんとした「ことば」に変えていく。そんなイメージが立ち上がってきた。
ことばをさがすことが、考える、ということなのかもしれない。感じることから、考えることにシフトするために、私は、拙いながらも「ことば」を探そう。


最後の長田さんの手紙には、「痛み」について書かれていた。そしてエミリ・ディキンソンの詩が引用されていました。

>一つの心が壊れるのをとめられるなら
で始まる詩。ほんとうは全部引用したいけれど、このあとは、見えないところに、自分の胸のなかに大切にメモする。本当に忘れないために。