時計を忘れて森へ行こう

時計を忘れて森へいこう (クイーンの13)

時計を忘れて森へいこう (クイーンの13)


ああ、気持ちがいいなあ。
本の中に入って深呼吸しているような気分だ。
さわさわ、さわさわ・・・
この本の登場人物の話す言葉が、風に揺すられる木の音みたいに聞こえるのだ。
目を閉じて(閉じたら本、読めないけど)この声をずっと聞いていたい。
この本を読むことはそのまま森の中にいることのようだった。


とはいえ、この本はミステリである。この本の中に短篇(中編?)が三つ入っている。
どの物語も、人が死ぬ。
それなのに、気持ちがいい、といっていていいのか。
人が死ぬけれど、解き明かすべき謎は、死んだ人の傍らにいる人の心なのだ。
人の死は悲しい。
探偵役の深森護(この名前! ついでにいえば、この本の語り手の女子高生の名は若杉翠。さらに、こずえさんとか安曇さんとか・・・ね、森になるんです、この人たちが集まると。)は、こう言います。

「ときどき思うんです。純粋な悲しみならば、人間は時間がかかっても越えていけるようにできているのかもしれない。(中略)でも、純粋な悲しみに何かが混ざったとき、それは苦しみに変わる。悲しみは人間を優しくするけれど、苦しみは人間をむしばんでいく」
この探偵は、殺人事件の犯人を探すのではなくて(そもそも殺人なんか起こらないし)亡くなった人の傍らで、苦しみに囚われて動けなくなってしまった人の、悲しみに何が混ざって苦しみになったのか、その「何か」を探すのです。
その「何か」を探し出せば、ことは解決するのか?
「何か」は、事実だ。しかし、人の心を動かすのは、「事実」ではなくて、「真実」なのだ。事実と真実、どう違う?
こんな言葉もある。今度は若杉翠の言葉。
>護さんが手触りの荒い「事実」という糸から美しい「真実」を織りあげる名人だということはよく知っている。


なゼ、森にいると気持ちがいいのだろう。
なぜ、この人たちの物語がこんなに気持ちがいいのだろう。
森を構成するのは、何と何と何と・・・で、それがどういう経緯で今の姿になって・・・というのがきっと「事実」
でも、それを知っても「ああ、気持ちがいい」とはならない。
この事実を織りあげたこの物語。
物語の世界に浸りながらわたしは「気持ちがいい」と思った。
何も解決しなくてもいいから、ずっとこの物語の中にいたいなあ、と思った。
小説だ。この物語の森にも、この森を守るシークという団体にもモデルがあるそうだけれど、やっぱり、これは小説だ。
でも、この小説に浸るようにして、森の空気をいっぱい胸に吸い込んだのだ。
この小説の中に、確かな「真実」が、美しい「真実」が、織りあげられていたのだと思う。
とても幸せな読書の時間でした。