五月の霜

五月の霜 (lettres)

五月の霜 (lettres)


>何年ものあいだわたしはずっとあなたを見守ってきました。あなたが知的で心の暖かい、模範のような生徒へと成長するのを見てきました。でも同時にわたしはあなたの中に別の物が育つのも見ました。自己の意志と自己への愛という固い小さな芯です。以前にも言いましたが、あらゆる意志は神の意志と一体になるために、完全に砕かれ作りかえられなければなりません。ほかの道はないのです。それが、ここリッピントンでわたしたちがおこなおうとしている教育なのです。
・・・完全に砕かれ作りかえられなければならない・・・
リッピントンは百年前のイギリスのカトリックの女子寄宿学校です。
実際、ここでの日課も、規則も、修道女たちの子どもたちへの接し方も、現代の(無宗教の)学校しか知らないわたしには、これを教育と呼ぶのか、と驚かされることばかり。
子どもが本来持っている感受性も向上心も希望もすべてを否定し捨てさせ、宗教の下に従順で無私な人間に育て上げる。
縦横きっちり計った角型の入れ物の中にぴったり(一ミリもはみださない・すきまをあけない)納まるように、生身の人間を厳格につくりかえてしまうように感じた。
しかも教育者たちは、完全に善意―正義の人、そして不屈の精神力と信念の人なのである。(修道女たちの圧倒的なほどのストイックな生き方は清々しく気高い)
あまりに濁りのない信念に、間違っている、とか、正しい、とか、そういう言い方はできないような気がしてくるのです。
カトリックにしろ、ほかの宗教にしろ、よく知らないまま、善し悪しを言うことはできないと思います。いちいちの場面の(宗教的な)意味を誤解しているかもしれません。
それでも、何年にも渡る完全な寄宿生活が、教育者の目指すとおりの成果をあげているのを見ながら寒々としたものを感じてしまう。
教育って怖い・・・。


主人公ナンダはプロテスタントからカトリックへの改宗者の娘として、この学校で9歳から15歳までを過ごします。
先祖代々のカトリックではないことから、(ある意味学校でのやや異質な存在であることを心にとめ)人一倍頑張って学校の期待にこたえようとする彼女のけなげさは痛々しいほどです。
プロテスタントカトリックの差は、日本の仏教の浄土真宗曹洞宗の差くらいだろう、と思っていたのだけれど、そうではないみたいだ。
また、同じカトリックの信仰のある娘たちであっても、他宗派からの改宗者の娘と、先祖代々カトリックの家庭で育った娘とは、ものの感じ方受け止め方に差があるようだ。(頭で考えてわかることと、脈々と流れる血で本能に近いわかり方をすることとの差?)
学校の方針に添って健気に努力してきたナンダが、成長とともに教師たちに反発を感じ、学校の体制に疑問を感じ始めた時には、おお、と快哉を叫びたくなったのですが、小さな反抗の萌芽は残酷な形で踏みにじられてしまうのです。
五月、といえば、一年のなかで一番美しい季節、と思うのだけれど、
冬の寒さを耐えて、やっと咲き始めたばかりの花々や、新芽を、思いもかけない寒気があっというまに打ちのめしてしまうのも、また五月なのだ、と・・・そう思いながら『五月の霜』というタイトルを眺めています。


苦い痛みに貫かれたような終わりかただったけれど、この痛みは自分のいったいどこから来るのだろう、と考えています。
「教育って怖ろしい」と思ったわたしだったはずなのに、それが失われることに苦痛を感じているのです。
どんな教育の場であれ――厳しい規則と管理の学校生活であったけれど、一方で、かけがえのないもの、美しいものがたくさんあったのです。
そして、学校生活のさまざまな場面を読むことはとても楽しかった。
思春期の少女の真面目な瞑想は、未熟ながらも澄み切った気高さを感じる。
豊かな感受性が(教師たちの手前隠されている分余計に豊かになって)瑞々しく花開く時でもある。
美しいものへの憧れ。そして、友情。心豊かな友人たちとの小さな集いは、小さな燈のように明るいのです。