『ポール・ヴァ―ゼンの植物標本』 ポール・ヴァ―ゼン/堀江敏幸

 

古道具店「ATLAS」店主、飯村弦太さんが、2017年、南フランスの蚤の市でみつけた「いいもの」は、紙箱に丁寧に納められた何十枚もの植物標本(押し花)だった。19世紀ごろのものだ、という押し花は、百年以上もの歳月を経ているとは思えないほどの保存状態だった。函には、飾り文字で「Melle Paule Vaesen」(Malleはマドモアゼル、という意味だそうだ。)


ゆっくりとページを繰っていけば、まるで昨日、野の風に吹かれていたかのような草花が、自然のままの姿で現れる。
綿のような花たちをふわっと軽やかにつけたワタスゲ
繊細な茎や群れるように咲く小さな花々が風にさわさわ音をたてているようなチュウコバンソウ、イトコヌカグサ。
くねくねした茎の先に、可憐な青い花をつけているゲンティナ・パパリカ。
元気いっぱい空に向かうツクシたち。
そして、その色。これはほんとうに百年前の押し花だろうか、と不思議に思うほどに、青も、紫も黄色も、鮮明ではないか。


これらの押し花に添えられているのは、堀江敏幸さんのエッセイ『記憶の葉緑素』である。
長距離バスの乗り換えまでの時間を過ごしたフランスの田舎町の骨董店『オロバンシュ』の店主との、植物採集や、植物学者たちの話。リンネ、ルソー、モーリス・ルブラン
少年の日、素人植物学者の叔父に導かれて、植物採集にいそしんだ著者自身の思い出。
著者と骨董店主、二人の教養ある男の蘊蓄話の間を行き来しながら、遺された標本と名前だけしかわからないポール・ヴァ―ゼンの手がかりを辿っていく。思いを馳せる。
フランスと日本の植物採集に魅せられた人たちの思い出と、一人の謎の女性が混ざり合っていくようで、ミステリアスだ。


丁寧に作られたポール・ヴァ―ゼンの標本は、採取場所が記されているものの日付もなく、場所の記録もざっくりとしているそうだ。
採取場所は、大体限定されていて、最も多かったのは、(今はもう存在しない)スイスの「ラ・シャソット」という、カトリックの女子寄宿学校のあたりなのだそうだ。
ということは、「採取者は、寄宿生か教職員、もしくはその関係者、と考えるのが自然だろう」という。
そして、これらの標本は、学問のためというよりは、
「自身が過ごした時間と心の動きを押し花にしたかのような印象を受ける」
と書かれている。
今はもう存在しない場所の思い出が、繊細な押し花(植物標本)に、しっかりと写し込まれる。その草原で、魅入られたように、植物に身をかがめる若い女性の姿が浮かび上がってくる。


美しい押し花の画集(写真集)のつもりで手にとった本だったのに、読み終えてみたら、全く違うものに変わっていた。
物言わぬ草花が、自分たちだけが知っている思い出を語っているようだ。聞く耳を持つ者だけに聞こえる声で。