窓の向こうのガーシュウィン

窓の向こうのガーシュウィン

窓の向こうのガーシュウィン


宮下奈都さんの本は、『よろこびの歌』のあと、これが二冊目です。
二冊に共通するのは歌声。歌声が聞こえる物語だ、ということです。
エラ・フィッツジェラルドの歌う『サマータイム*が、この物語の中からは聞こえる。
ずっと聞こえている。
ガーシュウィンというのは作曲家の名だそうです。)
ミュージカル『ポギーとベス』の中で歌われる有名な曲なのだそうです。
主人公は、幼い頃によく聞いたこの歌を、ずっと幸せの歌、として記憶していますが、実は反語的に不幸せな状況を謳った歌だったのだ、ということを後に知ります。
幸せ、不幸せ…とらえ方によって、見える景色も変わる…

>今まで、おかしいのは私だといわれてきたけれど、ほんとにおかしいのはまわりだったのかもしれない。


主人公・佐古さんは、自分のことを「足りない」と言います。
沢山の足りない人たちが、この物語のなかにはいた。足りない人ばかりだった。
足りないことが不幸なのではないのだな。
ひとりひとりが自分にあったやり方、自分にあった早さで、足りないものを、自分らしく満たしていくことができたら、不幸ではないのだろう。


何を急ぐことがあるのだろう。
何に追いつかなければいけなかったのだろう。
そうやって、もしかしたら、わたし、たくさんの大切なものに気がつかないで通り過ぎたかもしれない。
あるいは、気がつかないまま置いてきてしまったのかもしれない。
そうして、どこの到達地点を目指しているのだろうか。
急いで、先へ先へと進むことが、成長する、ということだと思った、向上することだと思った。
だけど、間違っていたかもしれない。
もしかしたら、
歩みをとめること、心こめてその場所に止まれることが、成長の証だったのかもしれない…


「今」という言葉が何度も出てきた。


ああ、今。今この時に見えるもの…
先を見たら目が回る。止まっているのが恐ろしくなる。
でもそれをあえて立ち止まる。
あえて?
この本の主人公・佐古さんは素敵だ。
わたしが「あえて」と言ったことを、普通にやっている。あたりまえにやっている。それがとても丁寧に見える。
そう、丁寧。彼女はとても丁寧に生きている。丁寧に感じ、丁寧に考え、丁寧に触り、丁寧に動く。
面倒がって、クシャッと丸めて放り出してきた日々の「雑事」、
佐古さんだったら、広げて、皺を伸ばして、大切に畳む。そんな姿が見える気がするのだ。
だから、きっと彼女といるとほっとする。
「あえて」じゃなくて、ふつうに立ち止まり、立ち止まることの自然さを快いと思う。


実は、佐古さん自身、「足りない」と言う言葉で自分をしばり、そのしばりのなかで窮屈に生きてきたのだ。
その彼女もまた、ありのままに足りなさを解放する快さを知る。


足りない人たちの物語だ。
そして、ちゃんと考えてみれば、実は足りないのは、「足りない人たち」の周りの人間たちかもしれないのだ。
わたし自身、足りないなんてことを考えずに暮らしてきちゃったんだなあ、と気がつく。(なんと足りない生き方)
足りないことに気がつかない、気がつけない、ということは、寂しいことだ、と思った。
足りなさを善きもので埋めていく空間は、なんて、豊かなのだろう。心地よいのだろう。