ダーウィンと出会った夏

ダーウィンと出会った夏

ダーウィンと出会った夏


素晴らしい導き手(そして同志)を得て、科学への漠然とした興味が、くっきりと形になっていく。
系統だった実験、観察の手順を学び、積み重ね、渇きをいやすように新しいことをどんどん吸収し、
より深い世界へと踏み込んでいく少女キャルパーニア。
彼女の喜びが、爽やかに伝わってきて、学びってこういうものだなあ、と思う。
もうすぐ12歳になるという少女のまっすぐな自然科学への憧れが、まぶしい。
それとともに、変わり者と呼ばれて周囲から敬遠されていた祖父と孫との交流が日々深まり、より太い絆になっていく様が素晴らしい。


将来が無限に近いくらいに広がっている、でも女であるための規制がけけられている少女と、
豊富な経験を持ち合わせながら、あと何年・・・という期限つきの老人と、
この二人が共同研究者となっていくことにより、
硬質な学びの世界が、弾力と柔らかみと痛みとをまとって、より豊かになっていくようだ。
祖父の思い出話、そして、50歳を過ぎてからの決心は、心に残る。
祖父が事業からすっかり手を引いて、この道を歩く、と決めた歳と、わたしは今だいたい同じところなんだもの。


しかし、時代は1800年代の終りである。南北戦争が終わって30年あまりのころ、という。
主人公は、南部の田舎の成功した実業家(であり農園主)の娘。七人兄弟の中の唯一の女の子なのだ。
この時代に「娘」に求められるものが重たい。
家族―ことに母・・・青春期を戦時ということで台無しにされた母にとって、ただ一人の娘にかける思いの大きさは、
別の方向に向いた娘を圧迫する。
母親は娘のために、と思う、だけど、それはほんとうは自分自身の満足のためなのだけれど、
母親は気がつかない。気が付きたくないのかもしれない。
自分の思い描いた狭い世界の良きものが、あまりに薄っぺらなことにも気がつくことができない。
でも、娘の教育に熱心な常識的な母親なんだ。


それって、この物語の中の母のことではなくて、もしかしたら、私自身のことかもしれない。
自由に夢を描き、自分の思い描く未来に向かって自由に進んでいけばいい、それが許された世界に生きているというのに、
そして、そういう時代を私たちが生きているということは、先人たちが命がけで勝ち取った勝利であったというのに、
なぜか、その自由を、別の不自由で規制したくなってしまう。
親は愚かにも、自分を囲む小さな世界しか思い描くことができない。
この小さな世界の小さな価値観の中で子どもが小さな成功者になるのを見たい。
それは子どものためだ、と言いながら、ほんとうに子どものためなのだろうか。
それは私自身のことかもしれない。


主人公の奔放さをがんじがらめにしばりつけよう、つなぎとめようとする圧力に、
主人公とともにあえぎ、苦しみ、いらだちながら、
母親の気持ちもわかる、と思うのだ。
わたしは、後の世界を知っている。
あなたの娘を、彼女の思うままに生かしてあげてもいいのだよ、そのほうがいいのだよ、幸福になれてもなれなくても、
あなたの娘は、自分で選んだ道を颯爽と歩ききるにちがいないよ、と
そう、後の世を知っているから、そう言えるだけなのだもの。
わたしも愚かな、想像力のない母である。その愚かさで、子どもを捻じ曲げ、圧力をかけ・・・そんなことを何度繰り返したことか。


だけど、キャルパーニア、今、あなたが学んでいることは決し無駄じゃない。
おじいちゃんと過ごした豊かな時間とは別の大切なことをおかあさんから教えられている。
きっと将来、そのことを感謝することになると思う。
そして、情熱のままにつっ走ることにブレーキをかけられることは悪いことじゃない、と思う。
そのためによりいっそうとぎすまされていくものもあるにちがいないから。


アメリカ南部、テキサス州
主人公は生まれてから今まで本物の雪を見たことがないという。
その彼女の前に広がるクリスマスのまっ白い雪。
家族がだれも起きだす前に、ただひとり、無垢な雪の世界にたつ主人公の姿に胸がいっぱいになる。
ああ、あなたはまだ12歳。
そして、あなたの前には、誰も踏んだことのない真っ白い世界が無限に広がっている。
あなたは一歩一歩、踏みしめていく。
静かにあなたの歩みを応援したい。あなたの未来を信じて。