放浪記

林芙美子 放浪記 (大人の本棚)

林芙美子 放浪記 (大人の本棚)


物心ついたころから(その前から?)行商の両親に連れられて旅から旅の連続で、落ち着いた暮らしはなかったのだろう。
まるでたたきつけるように記された日記風の文章は、時系列も定かではなくて、それだけに、事柄よりも著者の気持ちがくっきりと際立つ。
林芙美子さん。
ごめん、一言で言ったらめちゃくちゃじゃん。
地道に、とか、こつこつ、とか、そういうこととは一番遠くて、
何をやっても長続きしなくて、
いつもどん底でお金がなくて、
根なし草で、
しょっちゅう遠くにいる両親に無心したり、無心されたり。
書かれている言葉は激しくて、たいてい何かに怒っている。
そうかと思うと、裏返しの絶望がやってくる。生きる事が難しいと力なくつぶやいている。


そんなふうな文章の中にまざってくる小さな光のような言葉に、はっとしたりする。
たとえば、おかあさんを慕う気持ちの純粋さ。
故郷を持たない彼女が思いをめぐらす故郷はどこだったのだろう。
帰りたい場所はどこだったのだろう。
故郷への、そしておかあさんへの思いが、せつなくて悲しい。


地にへばりついて生きているわたしは、
林芙美子の歩き方が、怖ろしいような気持ちになる。
怖ろしい、と書いて、あれ、と思った。
林芙美子の暮らしは不安定で、いつも貧乏で、絶望したり、焦燥に駆られたり、
だけど、彼女は「怖ろしい」とは一度も思っていない。
どこでも、どんなところでも、そして、どんな姿でも、生きていく強さ。根なし草の強さがある。
一見きちんとした暮らしをしているつもりの私の危うさ、脆さも思い知ったりもする。


そして、何よりも、詩や文学への思いのまっすぐさに強く惹かれます。心揺さぶられる。共鳴、というよりも圧倒される。
詩・・・文学・・・そして読んでいるもの。
こういう本を読むんだ、こんな生活のなかで。こういう人がいることが奇跡のようにも思う。
女給や女中となって、狭い部屋で仕事仲間三人枕を並べて寝るような日々、
情のない男と暮らす、これまた狭いわびしい部屋で、
林芙美子は本を読んでいた。詩を書いていた。文学への憧れは、「紡ぐ」なんてささやかな言葉ではなくて、
もっとストレートに、激しく、乾いた心の求めは貪るようだった。
暗闇の中、どん底のような暮らし、とても似つかわしいとはいえない場所で輝き渡る文学の光。
その一言一言が胸を打つ。その純粋さが胸を打つ。

>・・・こんなうらぶれた思ひの日、チエホフよ、アルツバアセフよシユニツラア、私の心の古里を読みたい。働くと云ふ事を辛いと思つた事はないが、今日ほど、今こそ字がなつかしい、だが今はみんなお伽話の人だ。
>いい詩をかかう。
元気な詩をかかう。
只一冊のワイルド・プロツオデイスにも楽しみをかけて読む。


巻末の森まゆみさんの解説によれば、この「放浪記」は、後年、著者自身により、何度も手直しされたらしい。
いま、決定稿となっているものは、時系列も正されて、文章も洗練されているらしい。
でもこの本はあえて、初出のころのものをそのままにまとめたようです。
洗練されない、ほとばしるような思いが、泣きごとも怒りも喜びも、コロコロ変わる気持ちまでも素直に、びんびん響いてくる、
この本で放浪記に出会えたことはきっと幸せなことなんだろうな。
とはいえ、そうではない「放浪記」にも出会ってみたいなあ、という思いも沸いてきています。