さみしいネコ

さみしいネコ (大人の本棚)

さみしいネコ (大人の本棚)


著者は60歳で定年を迎えます。
妻や娘にやたら口うるさくなって、煙たがられる。
逆に言えば、今まで気がつかなかった生活の些細なことにも気がつくようになっている、ということでもあります。
季節の変化。近所の建物や庭木の佇まい。出会う人々。
余裕がある、ということなのでしょう。
だって、文章はゆったりとしているし、ユーモアがそこかしこにしこんであったりして。


30年のサラリーマン生活は、満員電車に乗っての会社と家の往復、時間に追われる暮らし。
気持ちの持ち方も、ライフスタイルに合わせて能率重視になる。
そうして、気持ちのなかに、自分の身のまわりをゆったりと見回す余地がなくなっていくかもしれない。


定年になったら、混んだ時間に電車に乗ることもなくなった。
愛犬といっしょに長い散歩をします。
休日を待ち望むこともなくなり、お給料もボーナスももらえなくなりました。
「定年後は日常茶飯事なんにでも楽しんでしまう。これが生活というものであろう」
なんて、書かれます。一方、著者の奥さまは奥さまで、
「勤めていたって安月給でヤリクリを三十年やってきたんです。これからだって同じことですよ」
と、動じません。


なんでしょうねえ、なんて気持ちが裕福な夫婦なんでしょうね。
読んでいるうちに、何だか、よい気をいっぱいいただいたような気がして、わたしの気持ちも裕福になっていきます。


定年後のサラリーマンの姿を例えて「さみしいネコ」
1913年生まれの早川良一郎さんが定年を迎える年の日本は高度成長期、モーレツサラリーマンなどという言葉もこのころではなかったでしょうか。
そんなころに会社を去る、ということは、「さみしいネコ」に例えたくなるような、どこか後ろめたいような、寂しいことだったのかもしれません。一般的には。
けれども、早川さんの定年後の心持ちは、ちっともさみしいネコという感じではありませんでした。
このエッセイが書かれてから約三十年。
定年を寂しいと感じるよりも定年後の人生を楽しもう、と考えるほうが、今は普通かな、と思うのですが。
そうなってきた先駆けがこのエッセイだったのかな、とも思います。