ピーティ

ピーティ (鈴木出版の海外児童文学―この地球を生きる子どもたち)ピーティ (鈴木出版の海外児童文学―この地球を生きる子どもたち)
ベン・マイケルセン
千葉茂樹 訳
すずき出版


>・・・ピーティ・コービンは、脳性まひ者なんだけど、赤ん坊のときに考える能力までまひしていると診断されて、人生のほとんどを、重い知的障害者としてあつかわれてきたの。
運動中枢神経が傷つけられて起こる障害なの。ピーティの頭脳は明晰よ。でも、心は障害のある体にとじこめられているの。ピーティはとても特別な人。
自分の人生を、信じられないほどの感謝の思いで受け止めてるの。人生の大半はつらいことばかりだったのにね。
自由にならないからだ、自由にならない言葉。
わたしはここにいる、ちゃんといるんだよ、と伝えることもできず、伝わらず。
生かされている、というだけで、何一つ与えられず、
優しい言葉かけもなく、
日の光や風に当たることもなく、
なんの経験もさせられず、
自分の体という牢獄の中に押し込められて、日の出、日の入り、日の出、日の入りを繰り返し迎える日々。
そんな牢獄の中で、まさかこれほどに豊かな感情が育っていることに、誰も気がつかなかったのでした。
何もないから育ったのだろうか。何もなくても育ったのだろうか。
「ピーティは特別な人」と言われるまでの、かれのこの豊穣はいったいどこから来たのだろうか。
ピーティの知性に気がついた人たち、ピーティを愛した人たちは、なんて数が少なく、力が弱いのでしょう。
オーエンが後年「ひまならもてあますほどあるよ」
「ほんとうはだれだってそうなんだが、年をとるまで気がつかないものなんだな」と言ったように、人々は忙しすぎました。
忙しさから遠い人・ゆっくりと時間を過ごすことを知っている人
―社会的にはもしかしたらはみだしているかもしれない人たちだけが
牢獄のなかにいる本物のピーティに出会うことができたのでした。


人はなんのために生きるのだろう。

>・・・自分の生きる目的はなんなのだろう? ピーティ・コービンの生きる理由とはなんなのだろう? なんのために毎日すりつぶした食べ物を食べ、オムツをよごしているのだろう? これが目的のある生活だとは、とても思えない!
同じことを年をとったオーエンが自問するところがあります。子どもが巣立ち、妻と離婚し、ひとりのクリスマスを迎えたオーエンが。
>いったい自分は何のためにこの世に生をうけたのだろう? オーエン・マーシュが存在したことで、だれかの役に立っているのだろうか?
紋切り型の答えならいくらでもあるだろうけど、それでは納得することができないだろう。
その答えをさがすために人は長い人生を生きていくのかもしれない。
いつか、その答えは、思いもかけない形で、思いもかけないところから得られるものなのかもしれない。
苦い灰色の日。日の入り、日の出、日の入り、日の出・・・ただ、それだけを数えるしかない日も、意味がないわけではない。


食べることだって排泄することだって、指一本動かすことさえも、自分の意のままにならない、
ほんとうに動くことのできないピーティが、人々の喜びである、ということ。
かけがえのない人である、ということ。
動けなくても、ただ生きているだけでも、人を幸せにすることができるのだ。
これこそが生きる理由ではないだろうか。
「死にたくない」 そう思えるほどに。
ピーティの一生を読み終えて、爽やかな涙に洗われたような気持ちでいます。


*追記*(2016.7.27)*
とてもとても悲しい事件が起こった。
この本のことを思いだしている。
上記の感想を読みなおして、書き換えたくなり、以下に記します。


知的であるとか、人を幸せにする力があるとか、は、その人の持って居る可能性のほんのほんの一部分ではないだろうか。
むしろ、それを問題にすることは、役に立つか立たないか、という価値観にすりかえられそう。
その人の命の一番輝かしい部分は、誰にも見えないかもしれないのだ。または理解できないかもしれないのだ。見えないものは「ない」と思ってしまうこと、理解できないものは「価値ない」と思ってしまうことは、とても短絡的で貧しい、とてもとても悲しいことだ、と思う。