灰色の季節をこえて

灰色の季節をこえて

灰色の季節をこえて


著者がこの本を書いたきっかけは、
イギリスの田舎での休暇中、そぞろ歩きの折にみつけた「疫病の村」という古い道標がきっかけだったという――


1665年から1666年の夏にかけて、その村を疫病が席巻する。
怖ろしい描写であった。
それこそ、ばたばた、という表現が相応しい勢いで、村人たちは倒れ、死んでいく。
やがて、土の下に埋められた人間の数が、土の上の人間の数を上回るまで。
そもそも、ここで何が起こっていたのか、想像できそうな気する。
でも、想像が追いつかないのだ。想像以上のことが、つぎつぎ・・・
疫病がじわりじわりと、隣人を侵食し、自分と自分の家族にまで及んでいくのを恐怖をもって待つ中で。


真に怖ろしいのは、この疫病が、村の外に波及することを恐れて、
村人たち自らが(牧師の指導のもとに)村を閉鎖し、そこに居残るようになったあと。
語り手アンナは、これを「広い緑の監獄」という言葉で表します。
自らを「緑の監獄」に収監した村の人たちには、逃げ場はどこにもないのだ。
閉所恐怖のような圧迫感を味わいつつ、
物を考えることもできないままに、でも圧倒的な筆力に、ぐいぐいひっぱられ、ひたすら読みに読みました。


時代も時代。
清教徒たちがひっそりと暮らす村。深く強い信仰で結ばれた村です。
けれども、危機迫るとき、強い信仰心とともに、その真逆の迷信もまた、芽を吹くのは、当然かもしれません。
病気との闘い、そして、信仰と迷信との闘い・・・
信仰、迷信、信仰、迷信・・・アンナが、ある日ふと感じた疑問に、俄かに、はっとします。
信仰も迷信も、どちらも、人が作り出したものではないか?


語り手アンナは、18歳ですでに未亡人。そして二人の子の母。
控えめな目立たない、ごく普通の女性だった。
特筆すべきは、彼女の成長。どんどん強く逞しくなっていく(そして賢くなっていく)彼女に目を見張ります。


この物語はミステリではありません。ありませんよね。
だけど、ミステリを読んだあとのように、「やられた」と感じているのです。
そして、ここに至るまでにばらまかれた伏線のあれこれに気がつき、
ああ、あれはそうだったのか、あれもそうだったのか、と思う。


物語の合間合間に挟まる美しい自然描写・・・ここは何と美しい村なのだろう!
この描写は、ほっとするどころか、このような地獄に、素知らぬ顔で美しくいられる自然が忌々しい。
不気味でさえある。
いや、何を言っている。
自然は、自然なのだ。あるがままなのだ。
不気味なのは、怖ろしいのは・・・起こった出来事よりも、人の心のような気がしてくる。
人の心は信じられるものだろうか。
裏切ったのは作者なのだろうか。わたし自身なのだろうか。
すっかり自信を失くして、そう思う自分自身も不気味だったりするのです。
最後には、語り手アンナにさえ、身放されてしまったような気がして、打ちのめされてしまう。


そして、一方で、思う。
この死の牢獄から解放されたあと、人は、自分に遺された物の中から、何を選ぶのか。
・・・生。
一番本能に近いところから響いてくる生の呼び声を聞くこと。
絶対的な生への肯定、ともいえるかもしれない。
でもそれは、賛歌というようなものではない。
生きる、ということは、なんと厳しくなんと力強く、醜いものなのだろう。
だけど、
がむしゃらに、ただ生きる、生かす、生きのびる・・・これだけが、命あるものの、究極の善なのかもしれない。