天の鹿

天の鹿―童話天の鹿―童話
安房直子
スズキコージ 絵
ブッキング


鹿撃ちの清十さんは、ある日、大きく見事な鹿にむかって鉄砲を構えるが、
「通してくれ。かわりにたくさんお礼をしよう」という言葉に銃をおろします。
清十さんの三人の娘のうち、一番上のたえがもうすぐ嫁にいくので、何かよいものを持たせてやりたいと思っていたから。
鹿が、清十を乗せていったのは、いろいろなものが売られている縁日『鹿の市』でした・・・


鹿は、何も求めません。ただ与えるだけで・・・その姿も、その走る姿も物言いも、気高いという言葉こそ相応しい。
だから、その裏返しのように、時々まざる不気味さ、寂寥感に、ぞくっとなるのです。
あの鹿の市は、あの賑わいにもかかわらず、どこかものさびしく、不気味。
そして、帰りの道の鹿の問いかけの言葉にぎょっとする。だけど、それは怖いのではなくて、ただ寂しさだけが残る。
実は鹿と清十とのあいだには、ある因縁のようなものがあったのですが・・・


なんなのでしょう。
この雰囲気・・・あくまで暗く、幻想的で物狂おしい・・・そして、気高く美しい・・・
スズキコージの挿絵のイメージが、この物語の雰囲気にぴったりリンクします。


だけど、この物語は、何を語っているのだろう。


三人めの娘は、なんだったのでしょう。分け合ったあの食べ物は何を意味するのでしょう。
遠いあの日、(肝を食べたことで)ひとつであるものが二つの体に分かれてしまったのでしょうか。
鹿は、恨みもせず、責めもせず、悲しみをたたえている。ただ静かです。
一方、たくさんの鹿を撃ち殺してきた清十にも、ことさらそれを「罪」と感じさせるものはありません。
登場する誰のどういう行いに対しても、それをどうとらえるか、どう見るか、という記述はなくて、
ただ、そういうものなのだ、と読者はそのまま受け取るのです。
これは、ひとりひとりの誰彼に思いをはせるより先に、大きな自然の調和の物語なのではないでしょうか。
二つに分かれたものをもとにもどすことはできないけれど、これは、もっと大きな存在による、代替行動のようにも思えるのです。
神話のようなイメージもあるのです。
そして、一つの食べ物を二人分け合って食べることは、その象徴のような気もします。


と、言って、うんうん、と納得しているわけでもないのです。
そして、思いは、娘と鹿に、そして、清十、という一人ひとりの上に、戻る。人の気持ちが一番気になるから。
やっぱり、さびしいし、待ってほしい、と思う。自分たちだけ承知していってしまわないでほしい、と思う。
天はいいところだろうか、とふと思う。
なんともさびしい物語、と思うのは、置いて行かれた者の側に自分がいるからです。
さびしいけれど、不思議な力強さも感じる。
暗いのに、すごく鮮やかな色を感じる。
そのどれもが、美しい。
暗い夜のなか、山谷をこえて、飛ぶように走る鹿の姿が印象に残りました。