渡りの足跡

渡りの足跡渡りの足跡
梨木香歩
新潮社


三月末、北方に帰るオジロワシオオワシワタリガラスに会おうと、知床へ向かう著者。
そのようにして、このエッセイは始まりました。
渡り鳥。・・・「でも、本当になぜ、『渡り』が必要なのだろう」 
そんな問いかけに向かって、この本のなかを梨木さんの旅が始まったのです。


たくさんの鳥たちと梨木さんの物語がありました。
北海道で、ロシアの森で、新潟県、長野県、
あるときは湖に浮かべたカヤックの上で、氷の張った湖に寝て、そして、もちろん自宅の窓から、
梨木さんは鳥と出会う。
鳥と語る。
そして考える。


いつの間にか、鳥の物語は、わたしたち人間の物語になっている。
鳥の渡りは、私たちの渡りであり、『渡り』はなぜ必要か、の問いかけは、鳥ではなく、私たち人間への問いかけだったのだ、と知ります。


ノスリホバリングの話。

ホバリングするのも、この風の勢いだとかなりの力がいるだろう。抵抗するには、強い力がいるのだ。
勢いに流されず、じっとしているという、ただ、それだけのことにさえ。
ノスリはこの辺でも見られる鳥、私の憧れの鳥でもあります。
梨木さんの文章の「勢いに流されず・・・」のところに感銘を受けました。
周りに流されているんじゃないか、と気がつきかけたときは、ノスリの姿を思い起こすことにしよう。
ひたすらに生きる鳥の姿にわたしたちはなんと教えられることがあるのでしょう。


おや、この文章がなぜここに?と、半分はそう思いながら、強烈に印象に残った章は『渡りの先の大地』でした。
「春になったら苺を摘みに」の、第二次大戦下の日系人強制収容所の話の続きが、こんな形で現れたことにびっくりしました。
以前読んだ『親愛なるブリードさま―強制収容された日系二世とアメリカ人図書館司書の物語』(ジョアンナ・オッペンハイム)と重なる部分を感じながら読みました。
これは第二次世界大戦下に行われたドイツとは別の、アメリカのホロコーストです。
風化させてはいけない、と思いました。
渡った先に待ち受けているものに裏切られることもあるのですよね。
それでも人は、鳥は、渡らずにはいられないのでした。
そんなにまでして「なぜ、『渡り』が必要なのだろう」という梨木さんの問いかけが響いてくるような気持ちになるのです。


鳥たちの渡りの案内役としては太陽や星座の位置が役にたっているのだそうです。

>幼いころに星空を見た経験を持たない鳥は、成長してからいくら星空を見せても定位することができない。――つまり、自分の内部に、外部の星空と照応し合う星々を持っていない、ということなのだろう(ということは、他の鳥はそれを持っているのだ!)
「他の鳥はそれを持っているのだ!」という言葉に、読者のわたしもともに「!」マークを思い浮かべているのですが、
こういう「何か」は、私たち人間もまた、持っているのでしょう。
でも、それが何なのか・・・なくなってあわてて、暮らしが立ち行かないぞ、と思ってはじめて
「嘗て持っていたけどなくしてしまった取り返しのつかないもの」に気がつくのでしょうか。
それでは手遅れになってしまうのではないか。
こういうことが、「鳥の行動がおかしくなっている」ことと関係があるような気がします。


最近、鳥の行動がおかしくなっている、という。
巣作りの季節じゃないときに巣づくりをはじめ、渡りの季節がきても渡らない。それが住むはずの無い場所に住んでいる鳥がいる。
ただならぬことがおこっていると。


鳥の行動がおかしくなっている。
鳥だけのはずがない。動物たち、自然界・・・わたしたち人間もおかしくなっているのですよね。
最近やさしくなくなっているような気がします。他人より自分、という気持ちがすごく強くなっているのではないだろうか。
これは自戒。
人との距離のとりかたなども、鳥が内部に持っている星のようなものかもしれない、と思いました。


そして、梨木さんの問いかけ「でも、本当になぜ、『渡り』が必要なのだろう」に再度、再再度、もどるのです。

>毎年ある時期が来ると、ここではない、もっと違う場所へ、という衝動が生まれる。そして、その場所は、自らの記憶にあるどこかなのだ。それは結局、「帰りたい」という衝動なのか。自分に適した場所。本来自分が属しているはずの場所。
わたしたちも帰りたい、帰る場所をさがしている。そう思うから、『渡り』に惹かれるのでしょうか。
そして、常に帰りたい、という気持ちをもっているかぎり、わたしたちはおかしくなることはないはずなのではないでしょうか。
だって帰る場所にはわたしたちの理想の原風景があるはずではないでしょうか。(結果間違っていたとしても)
私個人の、ではなくて、わたしたち種が共通して持っている本能のような記憶・・・
そんなことを思いながら読み終えました。
森の匂いが本全体から漂ってくるようなことばたち、
ときどきくすっと笑わせてくれるユーモアさえまじえた、森で聞く鳥のさえずりのように気持ちの良い文章ですが、
伝えようとするものは深くて大きく、警告に満ちたものでした。