ピスタチオ

ピスタチオピスタチオ
梨木香歩
筑摩書房


>ヨーロッパ人が最初にアフリカに出会ったとき、もっと互いの深いレベルで働いている何かを補完し合うような形の接触の仕方があったはずなのに、結局それはなされなかった。
 ヨーロッパでなく、アフリカでもない場所で――けれどアジアではさらになく――そういう「畏れ」と「親しみ」を湛えた国、しかもある種の「秩序の中に」ある、そういう国の存在を――実在するわけはないが――棚は時折夢想する。

最初のほうに出てきたこの言葉が、ずっと頭から離れませんでした。
物語は、棚の夢想する「国」にむかいます。その「国」は、入れ子の『ピスタチオ』のなかで形になされようとしています。


ライター棚は、武蔵野の自宅からアフリカのウガンダに赴きます。
確かに本当の移動であり、旅ですが、
実際、日本もアフリカも、より精神的な世界での「こちら側」「あちら側」の象徴のようなものかもしれません。


くっきりと境目があるように思えたものを混ぜ合わせようとしている。
混ぜ合わせることで、何かを解放しようとしている。
その何かが、何なのか、わたしには本当はわかっていません。
それは本当に必要なことなのでしょうか。


洪水も旱魃もこわくない、どちらも大きな流れの中の一場面に過ぎない、という言葉もあまりに抽象的で、わたしには難しい。
だって、わたしはどちらも怖い。
垣根をとりはずすことは怖いことだと思います。


もう少しゆっくりと語ってください、と言いたくなるけれど、
梨木香歩さんの文章は、必要最小限の言葉で、さらりと語って通り過ぎて行ってしまいます。
そのかわり、すべての場面、すべての言葉に、示唆的な意味があるように思います。
『沼地のある森を抜けて』にちょっと似ているかな。
それが、ますます精神的な深みに降りて行こうとする物語になってきているように思えるのですが・・・ついていくのに青息吐息。
気がついてみたら、完全に取り残されていました。
『沼地のある森を抜けて』のあたりから、梨木香歩さんの本、読むのがしんどくなってきています。
伝えようとするメッセージやイメージが確固としてあるのだ、と思うのですが、あまりに大きすぎて、
読者も本気でむかいあわなければ受け止めきれない感じなのです。
それが理詰めなようにも思えます。
好きな作家さんが遠くに行ってしまったようで寂しい気もします。
咀嚼するには何度も読み直す必要がありそうです。


印象に残るのは、「家族だって、いつまでも同じメンバーではないでしょう。期間限定、っていうのが群れ本来のありかたかもしれません」
との言葉。
自分の周りをぐるっと見回せば、確かにそうなんですよね。
私の家族。私が生まれたその日から、ずいぶん形が変わったのでした。
今の家族だって、このままずっと続いていくわけではないのですものね。
流れるように移り変わっていきます。


梨木香歩さんの本に繰り返し現れるのは「渡り鳥」「水」・・・流れて変わっていくものです。
家族の情景もまた鳥のようでもあり、水のようでもあるのでしょう。


この物語のなかでは、「生」と「死」までも、垣根を取り外して、混ぜ合わされようとしている。
主人公「棚」は、入れ子物語の中でそれを鳥の姿で昇華しています。
でも、それはわたしにはとても寂しいです。
この物語の目指す先も寂しく感じてしまう。
ほんとうにそこにいきたいのだろうか。そこにむかうことはよいことだろうか? 
わたしにはわからないのです。
巻頭にあげた引用文の「畏れ」と「親しみ」・・・「畏れ」は感じる。だけど「親しみ」がわたしには湧いてこない。


「死者には、それを抱いて眠る物語が必要」
それはしみじみと共感できる言葉。生と死の垣根を取り外すことが、そういうことであるならば、納得できるかも。
言葉の海のなかで、限りなく翻弄されたと思った旅は、ここにたどりつくための旅だったのだろうか。
この言葉に込められた「親しみ」にようやくほっとしたように感じます。