大海の光(ステフィとネッリの物語4)

大海の光―ステフィとネッリの物語大海の光―ステフィとネッリの物語
アニカ・トール
菱木晃子 訳
新宿書房


ああ、終わってしまった・・・
「この六年の間にステフィは何度、トランクに荷物を詰めたことか!」という一文が本の中にあるけれど、
ステフィとネッリの子ども時代は、ほんとうに旅の連続だった。
それは本当は、この4冊の前、ウィーン時代から始まっていたのだ。
住み慣れた公園通りの家から追われて、狭いアパートへ、もっと狭いアパートへ。
そして、避難民として、500人のユダヤ人の子どものひとりひとりとして、スウェーデンにやってきたのでした。
なんて困難な旅だっただろう!二人とも。
そして、今、また旅立っていく。6年を経て・・・物語はここで終わる。
苦しいことばかりだったかもしれない。でも大きな喜びも、希望も、あった。そして、愛する人たちがいた。
どんなときにも誠実に生きてきた。そのときどきにできるかぎりのことをやって。
差別と虐待と戦争によってつけられた爪あとがあるかぎり、この物語を普遍的な物語と読んではいけないのかもしれません。
でも、それでも、この二人の旅にわたしは自分の旅を重ねようとしています。


「旅」の途上であった人たちは、ほんとうに身近に居そうで、その姿がはっきりと目に浮かんでくるようでした。
自分の周りに。そして、もしかしたら自分の中に。そう、自分自身の中に、どの人もほんの少しずつ居るのです。
ほんの少しずつ自分でした。
愚かな人も賢い人も、ずるい人も誠実な人も・・・
ユディスのことが一番心に残ります。
自分の落ち度ではないのに(むしろ自分もまた被害者であるはずなのに)生き残ってしまったことを罪と感じ、苦しむ人々・・・
アリスのように、昨日まではステフィたちユダヤ人難民を疎んじていたのに、
一夜明ければにこにこと急に親しげな笑顔を向けたりする無責任な愚か者たち・・・
そして、リンドベルイ夫妻やカリータのように、目に曇りがあり、
決して決して「ほんとうのこと」(事実というより、人の心の真、とでも言えばいいか・・・)を見ることのできない人たち。
善人ではあるけれど、意志の弱さ、臆病さのせいで、結果相手を傷つけてしまうスヴェンやアルマおばさんのような人たち。
そして、口数少なく、無骨ではあるけれど、信念のもとに誠実に生きるメルタやエヴェルトのような人たち。


戦争は終わりました。終戦の喜びがあふれる町々。
でもステフィとネッリには新しい不安が立ち込めてきます。
行方不明になってしまったパパはどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか。
小学校を卒業しようとしているネッリは、これからどうなるのか、アルマおばさんの家にいられるのか・・・


作者あとがきがよかったです。
ステフィたちのような体験をした人たちは、スウェーデンに、そして作者の身内にもいました。
その人たちは、過去に対して、口をつぐみ、ずっと語らなかったのでした。(語れなかった)
その人たちが、今、ぽつぽつと重い口を開いて、語り始めた。
この物語はそういう人たちの体験をもとに書かれたのでした。語ってくれたこと、書いてくれたことに感謝します。
そして、各巻の冒頭に掲げられた作者の言葉
「戦争と人種差別は人間を、とりわけ幼い子どもたちを襲い、傷つける、邪悪でおそろしいものです。人には皆、平和に生きる権利があり、そして人はだれも、人間として同じ価値を持っている、と私は信じています」
・・・噛みしめたい言葉です。


ステフィとネッリの旅はきっとこれからも続く。もしかしたら、これがまだほんの序章なのかもしれない。
いつも一緒に、と望んだステフィとネッリだけれど、これから先、いつもいっしょにいられるわけではないだろう。
二人の間にもいろいろあるに違いない。
彼女たちとそれからその周りの人々との間にも・・・
でも、きっと今までのように生きていく。
できるかぎりのことを、そのときにできる一番いいと思えることを、勇気をもって選択し、一歩一歩あるいていくにちがいない。
そして、この地に初めてやってきたとき「この世の果て」と呼んだステフィが今、「この世の真ん中」と呼んだ事、
「この世には果てなんかありません。あたしたちが目を見開いて見ようとすれば、世界はどこまでも続いています」と言えるようになったことが、
これからの彼女の旅へのはなむけのように思いました。
新しい旅に出る二人に祝福を。よい旅であるように・・・と。