塩一トンの読書

塩一トンの読書塩一トンの読書
須賀敦子
河出書房新社
★★★★


「塩一トン」というのは、須賀さんの姑さんの
「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
という言葉から来ています。
一トンの塩とは、嬉しいことや悲しいことをいっしょに経験するということ。
一トンという大変な量を嘗め尽くすには長い長い時間がかかる、人間なかなか理解しきれないものだ、という意味だそうです。
本とのつきあいも、人間とのつきあいに似ているのではないか、と須賀さんはいいます。
そんな須賀さんの読書にまつわるあれこれの思いを書いた小さな文章をまとめた本です。


古典のことをイタリアの作家カルヴィーノはこのように言っているそうです。
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ」
・・・わあ、なんていったらいいのか・・・言葉もありません。
古典を簡単に呑み込めないのも無理はない、と思いました。
こんな風に思うまでには、確かに塩一トンくらいの読書は必要なのでしょうね。
でもそんな境地に立てるなら、確かに塩一トン分の価値はある、ううん、それ以上にちがいない、と思う。


須賀さんの姑さんは、軽い写真つきの読み物をよく読んでいたけれど、スキャンダル雑誌は決して読まなかったそうです。
その姑さんの言葉が
「ほんとうのことかもしれないような話は、うそかもしれないから、おもしろくないのよ」


「バイリングァルがよいなどと、人間を便利な機械に見立てたがる、無責任な意見が横行しているが・・・」
と続く文章の、ここ、「人間を便利な機械に見立てたがる」という言葉が印象に残ります。
考えてもみなかった。
人が人として瑞々しい心で豊かに生きることと能力主義とは相容れないことがあるのだということにもうちょっと敏感になりたい。


それから、須賀さんが小さな頃の話。
お話をしてくれるおとなに「終わりはどうなるの」と訊ねてたしなめられた言葉は
「だまって聞いていらっしゃい。途中がおもしろいんだから」
途中を楽しめる人でありたいものですよね。つい結果にばかり目がいってしまいがちだけど。


これはたくさんある気がついたことのほんの一部。
読書にまつわる、わりと軽いおしゃべり。
冬の夜長に、火のそばで、ゆっくりと須賀さんと本の話をしているような気がしてくる本。