アラスカ 風のような物語

アラスカ 風のような物語 (小学館文庫)アラスカ 風のような物語
星野道夫
小学館文庫
★★★★


アラスカの大自然を舞台にしたふんだんな写真とエッセイが詰まった本。
星野さんの文章は、飾り気がありません。無骨、とかいうのでもなくて、素直な感じがします。
何のてらいも気取りもなくて、まっすぐ。
そして、大切なことをストレートに語っている。だから読むほうも素直に心開いて感動するのだと思います。
良く考えれば(?)決して美しい文章ではないと思うのですが、やっぱり美しいなあ、と思うのです。
この飾り気のなさはやっぱり美しいと思います。
写真もとても美しい・・・文章と同じ匂いがします。その一枚一枚から素直な驚きと暖かなまなざしが、感じられます。
被写体の向こうに、あるいは被写体の内部に何か目に見えないものを見ているようで、
その目に見えないものに敬意を払っているようでした。

>自然は強い者だけが生き残り、子孫を残してゆくという。オオカミに襲われたカリブーの群れは、逃げ遅れた弱い者が犠牲となり、群れは強さを保ってゆくという。とてもわかりやすい説明なのだが、自然は、本当にそんな教科書通りに動いているのだろうか。もっと偶然性が支配している部分があるのではないだろうか。自然はある意味において、弱い者さえも抱擁してしまう大きさがきっとあるような気がする。
過酷な自然の中で、狩猟生活に生きてきたアラスカの原住民たちに、アメリカ資本主義の波が押し寄せてきます。
それは、アラスカの自然と歴史から見たら、困惑以外の何ものでもなかったのかもしれません。否定でもなく肯定でもなく・・・
改めてその土地・民族の独自の文化というものを考えます。
貨幣経済が浸透し、シャーマニズムは追われ、学校における新しい英語教育の中で、自分たちの言葉を話すと石けんで口を洗わされるという時代が始まってゆく。アメリカの同化政策とはいえ、太古の昔から彼らの暮らしを紡ぎ、互いを結んできた見えない糸は、確実に切り離されていった。その見えない糸を、私たちは文化と呼ぶのだろう。文化とは、物ではないからだ。
あちこちに付箋を貼りまくっていますが、いくつかの箇所で「ああ、出会い・・・」と思ったことがあります。


最近読んだ「エンデュアランス号漂流記」の原本は実は星野さんの蔵書でした。
いつか読みたいと思っていた「エンデュアランス」ですが、そこから星野さんの名前が表れたときは驚きました。
ちょうど「旅をする木」を読んだばかりで、次に読む星野さんの本を物色していたときだったので、
これも不思議な出会い、と思ったのでした。
この「アラスカ風のような物語」のなかで、
星野さんはオーロラの下で「エンデュアランス」のオーロラの下のシャクルトンに思いを馳せています。
生きて戻れぬかもしれないその旅の途上で、彼らは何を思っていたのだろうと。
「エンデュアランス」の日本語訳が完成する前に星野さんが亡くなったことが残念な気持ちになるのでした。


18歳だった星野さんが、古本屋で手に取ったアラスカの写真集に心奪われ、
その写真がとられたという村の「代表者」へ、と手紙を書きます。
「村の暮らしに興味がある。訪問したいが、村のどこかの家においてもらえないか」との内容。
漠然とした宛名であったのに、その手紙はきちんと配達され、やがて長い月日を経て、忘れた頃に返事がきます。
「いつでも来るように」と。
ここまでは「旅をする木」の中に書かれていたこと。
この長い月日を経て返ってきた返事の素朴さ、暖かさに感動するのですが、そ
の先のことが、この「アラスカ風のような物語」に書かれていました。
この本の一番最後のエッセイがそれでした。村の名はシシュマレフ村。星野さんと村の人々との交流はその後十年二十年・・・
ずっと続いていたのでした。
星野さんの誠実な人柄が偲ばれます。


星野さんが語るのは、この地に住む「人間」たちの物語でもあります。
崇高な魂の入れ物である人々の生活は素朴で命がけでした。一歩一歩、一瞬一瞬が命でした。宝でした。
丁寧に生きたい、丁寧に丁寧に生きていこう、この場所で、この時間を・・・そんな思いが湧いてきました。