彼岸花はきつねのかんざし

彼岸花はきつねのかんざし (学研の新・創作シリーズ)彼岸花はきつねのかんざし
朽木祥
学習研究社
★★★★★


広島弁を話す人々。戦時で、空襲警報が鳴り、B29が飛来する。
ああ。
この物語がどこに繋がっていくのか、きっと誰もが予想する。
もくじを見れば、「ぴかどん」という章がある。
そう・・・
でも、それじゃ、それで何もかも知ったつもりになっていいのか。
そうじゃない、そんなはずない。
こうして最初に向かうべき方向を見せるからには、それだけではない、ということを読者は予想します。
物語の紡ぎ手、朽木祥さんは、とても幻想的に、静かに、美しく、
この時代の小さな生き物たち――子どもと子ぎつねの世界を描いて見せてくれます。


反戦の物語といえば、
戦争の悲惨さ、むごさを、訴え、声高く、これでもか、これでもか、と衝撃的な場面を描き出すのが常ではないでしょうか。
そんなふうに言えば、
実際の戦争の恐ろしさは、筆舌では尽くせないのだ、どこまで書いても書ききれることはないのだ、と言われるでしょうか。
そう言われたら、ただ恥ずかしく言葉もないのです。
けれども、戦争の、あの時代の物語、と言われれば、わたしたちは、構えてしまわないでしょうか。
できれば触らずにすませたい腫れ物のように見えることがないでしょうか。
大きな声を上げればあげるほど、衝撃的な場面が描かれれば描かれるほど、
わたしたちの神経のどこかは、その大きさに、鈍感になっていきはしないでしょうか。
大きな声は、案外聞こえないままに、頭の上を通り過ぎては行かないでしょうか。


朽木祥さんは、この本で、とても小さな静かな声で、美しい言葉で
美しい田園風景を、竹林を、そこに生きるものたちの交流を、ゆっくりゆっくりと描いて見せてくれました。
時間がとまるような少女と子ぎつねの時間。
不思議な話がここでは不思議ではなくて、どこか敬虔な気持ちさえある、たたりと信仰・・・
というより、もっと身近な生活の中のできごとにまで降りてきている、暮らし。
コトリ、おきつねさんにばかされること。
おかあさんやおばあさんの語りは、土臭く温かく、少し怖いようで、どことなくユーモアがある。
さわさわ鳴る竹林。子どもたちの群れて遊ぶ声。草花のくびかざり。
田舎らしいきめ細かく温かいお付き合いや、あれこれの噂話。
灯火管制や、空襲警報の響く日々は、それでも、静かにそして普通にすぎていく。
いないおとうさんのこと。お手玉からときどき取り出されるあずき。
おばあさんが最近おきつねさんにばかされなくなったこと。
・・・


生活にふわっと雲がかかるように現れる不安も静かに行間に吸い込まれていくよう。
ただしんとして、風が竹林をゆするのを聞いている。
最後のページまで、ただただ美しく、静か。
どこまでも、決して声を荒げることなく・・・たぶん、残酷な場面は出てこないはず。
だからこそ、読後、行間に一旦吸い込まれた小さなあれこれの不安のかけらが、自然にすうっと昇ってくる。
浮かび上がってくる。
小さなものの愛しさ、小さな命の大切さ。
何も知らずに消えていったものたちと残されたものたちへの思いと重なり合う。
わたしたちがかみ締めるべきはこの思いなのだ、どこにもやり場のない悲しさなのだ、切なさなのだ、と思う。
平和を守ろう、自然を守ろう、〇〇を守ろう・・・と構えることなく、
あたりまえの日々が、あたりまえの風景が、揺さぶられることなく、ただあたりまえに、いつまでもいつまでもあればいいのに。


土手に彼岸花が咲き始めたらこの本を読もう、と思っていました。
いつのまにか、土手は彼岸花でいっぱいになっています。今日はお彼岸の入り。