『西日の町』  湯本香樹実

夜、おかあさんが爪を切る場面でこの物語は始まります。
ぱちんぱちんという音が、なんだか不気味です。「ぼく」(小学生)には「親の死に目に遭えないから」という理由で禁じながら、自分は切るのです。部屋の隅には「てこじい」がうずくまっています。てこじいはお母さんの父親。
そこで、あっと思うのです。この親子の微妙な関係。
「ぼく」の目を通して語られるおかあさんとてこじいの関係。
この「ぼく」自身が実は現在大人であり、昔の、てこじいと暮らした一年間の回想なのです。大人である現在の「ぼく」と当時の小学生の「ぼく」の両方の目がとらえるてこじいとおかあさん。

決して書き込みすぎることがない文章です。むしろもうちょっとというところでやめてしまう、てこじいとおかあさんの過去。それでも、この二人の人生観や、大切なもの、失ってきたものなどが、しっかり見えるところで、筆をおいているところがなんともにくいです。
はじめ、小さな不気味なかたまりでしかなかったてこじいが、読み進むに連れて大きくなっていく。
大きかったおかあさんが小さくなっていく。
そんな風に感じました。ふたりの大きさがちょうどよくなるまで。
あの夜のおかあさんの涙。突き放すように諭すてこじい。
三人で赤貝を食べるところ、圧倒的な力を持って迫ってくるようです。
これがこの家族のクライマックス、なんと力強い映像でしょう。

「ぼく」ができすぎていることが、気になるといえば気になりました。いい子すぎるよ、こんな子いないよ、と。
この物語のなかでの「ぼく」っておかあさんとてこじいの関係(あまりにあけすけなおかあさんの激しさ)を際立たせるための脇役にすぎない。いい子すぎるくらいがちょうどいいのかもしれない、と納得しました。
夜中に爪を切るおかあさんの、憎しみと紙一重のような深い愛情は、いい子過ぎる子どものおかげで、まっすぐ伝わってくるのです。
やはり、これは児童書ではないよね、と思うのです。

最後は、またおかあさんが夜爪を切るのです。ぱちんぱちんと。
でも、これはてこじいを呼び戻しているのです。
最初とは意味がちがっている。
いえ、
最初から、同じだったのかもしれない。死に目になんかあいたくないよ、どこででも野たれ死んだらいいよ。だけど、もし、わたしのそばで死ぬならそんなことは我慢できない、認めない、と。

それでも、引越しには、骨壷を段ボール箱に入れて、他のこまごました生活雑貨とともに宅配便で送る、そういう母。
てこじいはあの世で、うすく笑ってるような気がします。「バカヤロー・・・」と言いながら。
同じ親子でありながら、暢秋おじでさえ入り込む余地のない、奇妙な深い結びつきのてこじいとおかあさんが、どこかうらやましくさえ感じました。

西日に照らされてなにもかもくすんだように見える西の町のアパートのおかしくて、ほろ苦く、不思議なあたたかさのある共同生活。
一日の終わりのゆらりとした大きな西日が、命つきようとするてこじいそのもののように思えました。